「慎重に……」アフナーは言いよどんでから、「慎重に考えさせて下さい。ご返事には1週間の猶予をいただけないでしょうか」(中略)
 ザミール将軍は首を横にふった。「1日しか猶予がない。とくと考えたまえ。1日で決心をつけられない者は、いくら時間があっても決心がつけられないものだ」
(『標的(ターゲット)は11人 モサド暗殺チームの記録』ジョージ・ジョナス:新庄哲夫訳)

モサドイスラエル
 ここで、そのドイツと日本の食品の安全基準の違いを見てみよう。
「安全と証明できたものしか売ってはならない」ドイツでは、野菜も有機無農薬野菜が売られる。有害な食品添加物は使われない。
 ところが日本では「危険と証明できない限り売ってもよい」。このため、マウスに人間体重換算の添加物を投与してその毒性の限界値を判定し、その範囲内での添加物の使用を認めている。
(『マインドコントロール 日本人を騙し続ける支配者の真実池田整治
 種はあいまいで、さまざまに変る境界を持っているのである。何がそれを種としているのかは、場合によって異なる。もしも種に全体を統一させる性質があるのならば、それが何であるのか、私たちにはわからない。何かに属するということは、何かのクラスに属するということであって、何らかの本質が存在するという証明ではない。ある意味でそれは一時的な状態であり、やり直し可能である。決して、永遠で必然的なものではないのだ。私たちが人間という種に属するのであれば、それは、私たちが何か特別な性質を持っているからではなく、私たちが、自分の系統にそのように線引きをするからなのである。(『人間の境界はどこにあるのだろう?フェリペ・フェルナンデス=アルメスト長谷川眞理子訳)

進化
 ロバート・マートンの言葉を借りれば、人々がそうした信念を持つのは「自分自身の体験からこう結論せざるを得ない」と考えるからである。誤った信念は決して非合理性が生じるのではなく、合理性の欠陥から生じるのである。(『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるかトーマス・ギロビッチ:守一雄、守秀子訳)

認知科学科学と宗教
 なぜかというと、西洋医学で治らない病気がいっこうに減らないからです。医学は長足の進歩を遂げていますが、治せるようになったのは感染症がほとんどで、ガンとか心臓病、糖尿病などは治すのが難しいのです。(『人は何のために「祈る」のか 生命の遺伝子はその声を聴いている村上和雄、棚次正和)

 あるときは意識してる。普段は全然意識してないけど、意識して止めようと思えば止められるでしょ。そういう意味では「呼吸」という行動はちょうど意識と無意識の境目にある不思議な行動だ。(『進化しすぎた脳 中高生と語る「大脳生理学」の最前線池谷裕二

脳科学瞑想
 1952年に行なわれた乳がんの女性たちの精神分析でも、同じような結論が出ている。その女性たちは「怒り、攻撃性、敵意を放出したり、それらに適切に対処することができない(そうした感情は「感じのよさ」という仮面の下に隠されている)」ことがわかったのだ。研究者たちは、この患者たちの解消されていない葛藤は「否認と非現実的で自己犠牲的な行動」の形で現れると感じた。(『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ:伊藤はるみ訳)

ストレス病気
「物事のうわべしか見ない浅薄な人間は、狭い自我の殻の中に閉じこもって、他人の苦悩に対して感受性を持つことができません」ラヒリ・マハサヤ(『あるヨギの自叙伝』パラマハンサ・ヨガナンダ:SRF日本会員訳)

ヒンドゥー教
 つらい修業といったって何年もつづくわけではないのです。長い人生のうちにほんの5年か6年、あるいは7年か8年、こういう思いをするのは当たり前だし、私なんか6年ちょっとの修業のおかげで、それ以後、自分が生活をし、女房、子供を養い、さらに私のお袋まで背負っていけるわけですから。そして振り返ってみますと、つらかったなんていうことも、考えてみるとそれほど大したことではないのです。しかも、わずか6年ちょっとの修業で、死ぬまでの間、おまんまがいただけるなんていうのは、考えてみれば、ほんとに安い修業ですし、短い修業だったと思います。(中略)ですから、そういうことを考えますと、我慢をしたかしないかということの差が、その人のあとあとの人生の勝負にずいぶん影響をおよぼすんじゃないかと思うのです。(『神田鶴八鮨ばなし』師岡幸夫)
 街頭の消えた夜道を歩きながら、停電が始まったらヨーロッパ人はどうするかを考えてみた。
 イギリス人はまず、歴史年表で「大停電」の前例を調べるに違いない。ドイツ人はさっそく精密な「停電一覧表」を作る。フランス人は、自分の家の停電が長すぎるとわめき立てるだろう。イタリア人は、この機をのがさずガールフレンドの部屋にしのび込む。日本人は――まち中を走り回り、ロウソクを買い込むかもしれない。
(『深代惇郎エッセイ集深代惇郎
 細川(※潤次郎)のいうに「ドウしても政府においてただ捨てて置くという理屈はないのだから、政府から君が国家に尽した功労を誉めるようにしなければならぬ」と言うから、私は自分の説を主張して「誉めるの誉められぬのと全体ソリャ何のことだ、人間が当り前の仕事をしているに何も不思議はない、車屋は車を挽(ひ)き豆腐屋は豆腐を拵(こしら)えて書生は書を読むというのは人間当り前の仕事をしているのだ、その仕事をしているのを政府が誉めるというなら、まず隣の豆腐屋から誉めて貰わなければならぬ、ソンナことは一切止(よ)しなさい」と言って断ったことがある。(『新訂 福翁自伝福澤諭吉

氷川清話日本近代史
 兵とは詭道(きどう)なり。/戦争とは詭道――正常なやり方に反したしわざ――である。(『新訂 孫子金谷治訳注)

孫子
 本当に大組織化されていって、本当に問題が本質的なものになったときには、現場の知識の寄せ集めでは本質的な解決方法が出てきません。低い視点に縛られてしまって、局部的な場面でしか通用しない解決方法しか発想できません。それは真実のリーダーではないのです。(『心の操縦術 真実のリーダーとマインドオペレーション苫米地英人
 病み臥した人にそれをいうつもりはないが、臥床(がしょう)するまでに家族との関係をどう築いてきたかで、その後の長く重い介護期の色合いが決まるのではないかと思う。(『寝たきり婆あ猛語録門野晴子
 アンクル・ルーロンは推定75人の女性と結婚し、すくなくとも65人の子どもの父親になっている。妻の何人かは、14歳か15歳で結婚しているが、彼のほうは80代であった。100パーセント服従しなければならない、と彼はよく説教のなかで強調している。「私はあなた方にこう言いたい、あなた方が教授できる最大の自由は服従のなかにある、と。純粋な服従は純粋な信仰を生むのです」彼はそう説教する。(『信仰が人を殺すときジョン・クラカワー:佐宗鈴夫訳)

宗教モルモン教信仰
小林●ぼくら考えていると、だんだんわからなくなって来るようなことがありますね。現代人には考えることは、かならずわかることだと思っている傾向があるな。つまり考えることと計算することが同じになって来る傾向だな。計算というものはかならず答えがでる。だから考えれば答えは出(ママ)るのだ。答えが出なければ承知しない。(『対話 人間の建設小林秀雄岡潔
「ねえ、パレアナ、いまでは町じゅうがおまえといっしょにその遊びをしているんじゃないかと思うよ──牧師さんまでもね!(中略)町じゅうが前よりもおどろくほど幸福になっている──これもみな、人々に新しい遊びとそのやり方を教えた一人の小さな子供のおかげなのだよ」(『少女パレアナエレナ・ポーター:村岡花子訳)
 日本で最初に西洋哲学の講義、「ヒロソヒ」の講義をしたのは西周(にし・あまね)であり、哲学という言葉も彼の造語である。彼は「ヒロソヒ」を「希哲学」と訳し、ソクラテスを「希哲学の開基とも謂(いふ)べき大人(たいじん)」と呼んだ。(『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること小林秀雄
「お前、溜飲の下がる味合を知ってるかえ、今の中(うち)、じっとして、思う存分、踏んだり蹴ったりされていなくちあその味合がねえじあねえか、なあに、なにをどうされたって、高々20年か30年の辛抱だ、今にこの勝麟太郎があ奴らの足許から、いやっという程引っくり返して泣きべそをかかせてやるよ」(『勝海舟子母澤寛

勝海舟
 これに勢いをました身延山久遠寺は、寛永9~10年の全国寺院の本末帳提出の折には、日蓮宗すべての派の総括を行なうようとの命令を幕府から得た。一方、不受不施派の頭目と目された妙覚寺に対しては、きびしい探索を行なうとともに、寛永10年の段階でもまだ不受不施の思想を持っているかどうかを本末帳の中に1カ寺ごとに書き入れさせた。
 それからさらに、身延山久遠寺は幕府権力を背景にしつつ不受不施派の弾圧にのり出していった。その手口は、幕府の法要のたびごとに不受不施派の不参加を口実に上訴するということであった。また久遠寺は寛文7年(1667)に江戸ならびに武蔵国などその周辺の不受不施派寺院を調査し、幕府にその弾圧をしばしば要請している。その結果、幕府は不受不施派に対して改派をせまることになった。しかし江戸だけでも242カ寺という不受不施派寺院の勢力は依然根強く、多くの人々の信仰をあつめており、簡単にはいかないようであったが、寛文9年(1669)4月には、日蓮宗不受不施派寺院が寺請をすることを禁じている。さらに元禄4年(1691)不受不施派とともに悲田宗をも禁止している。このようにして完全に不受不施派は禁制されることになり、その後公的な形での布教活動は困難になった。
(『庶民信仰の幻想』圭室文雄、宮田登)

信仰
「この一件で、お前はひどい目にあうことになる、そのことを忘れるな」
 私が言った、「名はスペンサーだ、サーの綴りは、詩人と同じようにSだ。ボストンの電話帳に載ってるよ」外に出てドアを閉めた。また開けて中に首を突っ込んだ。「〈タフ〉という見出しの項にな」ドアを閉めて階段を下りた。
(『初秋ロバート・B・パーカー:菊池光訳)
 いくら独自なものが存在していても、それが他者によって受けとめられるのでなければ、神秘は生じない。
 独自なものだけがあっても、また見つめるまなざしだけがあっても、この神秘は生じない。
 神秘はいわば、【あいだ】にある。
(『吉田加南子詩集』吉田加南子)
 実際には、生物のいろいろな性質(「表現型」といいます)は、DNAだけで決まっているのではなく、環境と生物との相互作用の中で決定され、それが細胞分裂や世代を超えて維持されるのです。「生まれ」という基板が、「育ち」によって影響を受けながら、やがて固定的な表現型を生み出すと考えるのが、現在の生物学の常識となっています。エピジェネティクスは、そのような環境要因がDNAの使われ方にどう影響するか、ということを扱う学問なのです。(『エピゲノムと生命 DNAだけでない「遺伝」のしくみ』太田邦史)
 文字がふんだんに使われる社会とそうでない社会とでは、社会そのものの性質が違う。文字をもたない、あるいはまだ十分に用いない段階では、文字を必要とするような複雑で安定した制度を保てないから、社会の仕組みは単純で、ともすれば移ろいやすい。こうした社会では、制度のかわりに、しばしば壮大な建造物や魅力的な道具を用いた儀礼が人びと同士を結びつける役割を演じたり、服飾や持ち物が個人の地位や身分を明確に示したりする。文字不在のもとで、社会のまとまりや仕組みを保つ機能が、物質文化、すなわち道具や建造物に、より強く託されているのである。(『日本の歴史一 列島創世記 旧石器・縄文・弥生・古墳時代』松木武彦)

日本史
「どこかのレストランやホテルのロビーで彼を見かけても誰ひとりとしてそれがイサー・ハレルと気付く者はいないだろう。それほど外見は平凡な男だ。しかし、ひとたびあの青い目に見つめられると心の平静さを失わない人間はいない。にらまれただけですでに監獄に打ち込まれたような気持に陥ってしまう」(『モサド、その真実 世界最強のイスラエル諜報機関』落合信彦)

モサドイスラエル
 従来の知能テストは、子どもの知能の「現下の発達水準」を見るものです。そのため、子どもが自分一人で、独力で解いた解答を指標として評価します。そこでは、当然、他人の助けを借りて出した答えは、何の価値もないと見なされていました。
 ところが、ヴィゴツキーは、子どもの発達過程を真にダイナミックな姿としてとらえるためには、このような解答をこそ大切にしなければならないと考えたのです。
(『ヴィゴツキー入門』柴田吉松)

心理学
 それはまちがいなく咆哮そのものだった。戦(おのの)き震え、必死で助けを求める、極限的苦痛を嘗(な)めさせられた者にしか発せられぬ咆哮だった。その苦痛は人間にはもはや耐えられぬもので、喉(のど)から訴えられるのではなく、肉体自身、肉や骨や神経が訴えるのだ。苦痛はそれらを強いて、最後の死にものぐるいの絶叫を絞り出させるのだ。(「黒い警官」ユースフ・イドリース:奴田原睦明訳/『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20』)
「無差別攻撃を受けて、サドルシティに住む私の友達は、3人が死に、2人が重症(ママ)を負った。デモクラシーとやらはどこにあるんだ?」(MFハイタム・タヘル)
アメリカは、バグダッドに自由を授けにきたと言っている。そんな嘘を、絶対に私は認めはしない」(セルマン)
(『蹴る群れ木村元彦

サッカー
 意識と脳の関係性は、「マインド・ボディ・プロブレム」と呼ばれる非常にやっかいな問題だ。今のところ、我々科学者には、物理化学的な神経系のはたらきと、主観的な私たちの意識感覚とのあいだをうまくつなぐような科学的な理論はない。意識の精神世界と、脳の物質世界とのあいだには、越えることのできそうにない巨大な谷がある。谷のこちら側には、物理の法則に従う、この宇宙で知られるかぎり最も複雑な器官である脳が存在する。そして谷のあちら側には、我々の経験、つまり、日々の生活で我々が見たり聞いたりするといった感覚や、恐怖不安欲望や愛、退屈さといった感情、つまり主観的な意識の世界がある。(『意識をめぐる冒険クリストフ・コッホ:土谷尚嗣、小畑史哉訳)
 進化論以前の比較解剖学の中でつくられた、相同という概念、基本設計の一致としてとらえられていた概念が、進化論が入った瞬間に、祖先を同じくする構造であると、定義が変わったわけです。(『解剖学個人授業養老孟司、南伸坊)
 マッカーサー元帥は2年半後、トルーマン大統領との意見が対立し罷免された。
 帰国したマッカーサーは、上院で、「第二次大戦は日本にとって自衛の戦争であった」とはっきり証言した。また彼は、トルーマン大統領と会見したとき、「東京裁判は誤りであった。あの裁判は戦争を防止するうえで何の役にも立たない」と告白している。
(『封印の昭和史 [戦後50年]自虐の終焉小室直樹渡部昇一

日本近代史
 5年ほど前、当時のソ連のミコヤン副首相と会ったときも、2時間ばかりのあいだに、人民解放の話が出ましたが、なごやかな話のふんいきのなかで、わたしは、あなたは人民を解放したといわれるが、日本の婦人解放をじっさいにやったのは、このわたしだ、と笑いながらいったものです。
 それはどういうわけか、とミコヤン氏がいうので、今日、日本の婦人たちは、台所にしばられていた以前にくらべて、遊ぶ時間ができ、本を読む時間をたくさんもつようになっているが、それは、わたしが家庭電気器具をずっとつくってきて、それを普及させたからだ、といったのです。するとミコヤン氏は、わたしの手をぐっとにぎって、おまえは資本家ではあるが、偉いといいました。
(『若さに贈る』松下幸之助)
 ある市場に入ってきている資金は、ほかのどこでも活用できる資金です。その資金には金利というコストがかかっています。そのコスト以上の利回りで運用されなければロスを出しているに等しいといえます。あるいは、インフレ上昇率以上の利回りが得られなければ目減りします。株式、債券市場の発行体も投資家もすべて自分が取ったリスクのリターンを欲しています。(『実践 生き残りのディーリング 変わりゆく市場に適応するための100のアプローチ矢口新

為替
「ぼくらは、みんな、いつ気が狂ってもおかしくない状況にいた。民族主義者になることもファシストになることも、ここではたやすいことなんだ。だけど、けっしてそうはならない正常な精神が、サラエボにはまだ生きているということを示したいんだ」(『失われた思春期 祖国を追われた子どもたち サラエボからのメッセージ堅達京子
 自己を高めながら生涯を過ごしていければ、最高だ、と思う。近頃、おりにふれて感じるのは、人生の節目ごとに表情が明るくなっていって、最後に死ぬ時には笑っているような、そんな人間がいいな、ということだ。(入学考査・講演の感想文より 女子)『自由の森学園 その出発』遠藤豊

教育
 また、自閉症児は「対人関係を持たない」あるいは「持てない」ともいわれます。でも私は、これまでの臨床経験から、対人関係を持てないのではなく、対人関係を拒否するという形で彼らは人間関係を形成していると認識しています。
 たとえば、そばに誰か近づくと逃げるという行動をとる自閉症の子どもは、逆にいえば他人を意識しているがゆえに逃げる行動をとっていると私は考えています。
(『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか酒木保
 人は生まれるとき、自らの意志とは無関係に生を受ける。どこの世界や家庭に生まれるか、選択の余地はない。人生の始まりからしてそうなのだから、作為的に死を選ぶのは邪道であると私は考える。(『自殺死体の叫び上野正彦

自殺
 99年12月、タンクローリーが交差点で軽トラックと激突する交通事故が起こった。軽トラックは大破し、乗っている人が出てこなかったことからタンクローリー運転手は死亡事故を起こしたと思い込み、動転して約200メートル離れた鉄塔に上ってそこから飛び降り自殺した。しかし、実際には軽トラックの運転手に怪我はなく、無免許運転だったためその発覚を恐れて車外に出てこなかっただけのことだった。(『自殺のコスト雨宮処凛
「火のないところに煙を立たす策士も居る」(『時宗高橋克彦
時間のより深い次元」ということをやや唐突な形で述べたが、たとえて言うと次のようなことである。川や、あるいは海での水の流れを考えると、表面は速い速度で流れ、水がどんどん流れ去っている。しかしその底のほうの部分になると、流れのスピードは次第にゆったりしたものとなり、場合によってはほとんど動かない状態であったりする。これと同じようなことが、「時間」についても言えることがあるのではないだろうか。日々刻々と、あるいは瞬間瞬間に過ぎ去り、変化していく時間。この「カレンダー的な時間」の底に、もう少し深い時間の次元といったものが存在し、私たちの生はそうした時間の層によって意味を与えられている、とは考えられないだろうか?(『死生観を問いなおす広井良典
 拘置所、それは国家が在監者を拘禁し、戒護し、厳格な紀律にしたがわせる場所である。在監者の側からいえば、時空にわたっての、あらゆる自由が制限されるところである。囚人に残された最後の自由、生きることまでが制限されているのが死刑確定者なのである。(『死刑囚の記録』加賀乙彦)
 狂気は死者のみならず死そのものを経験するのである。(『死と狂気 死者の発見渡辺哲夫
 かつてアメリカの心理学者、ウィリアム・ジェームズ(1842-1910)は、「我々は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」との考えを主張した。ほとんど同じ時期に、オランダの生理学者のカール・ランゲ(1834-1900)も同じことを言い出したので、「ジェームズ=ランゲ説」と呼ばれている。(『子供の「脳」は肌にある』山口創)
 多くの事例に当たってみると、そうした子のほとんどが、なんらかのかたちで「生活が勉強だけ」という期間を、しかも小学校時代から、かなり長く過ごしている。(中略)生活が勉強だけという日常は、とくに親に対して抵抗力を持たぬ小学生にとっては想像を絶する重圧であり、虐待である。そのような不断の虐待の末に、ようやく「勉強する生活に慣れて」、つまり適応させられ、改造されてゆく。
 これは一種の精神的「ロボトミー人間」ではないのか。(中略)だが、中学・高校とすすみ、体力も父親を越えるほどになったロボトミー人間が、あるとき突然目覚めたらどうなるか。「人生を返せ!」とは、ロボトミー人間が本来の人間に戻ったときの叫びなのだ。
「過保護」という言葉がよく使われる。しかし以上のような形での親の干渉(より広くは社会の干渉)は、むしろ子どもの多様な発展の可能性を刈りとって、一本のモノサシに合わせてしまうための「過虐待」であろう。となれば、家庭内暴力はその長い「過虐待」や「過干渉」に対する子供の側からの反撃であり、復讐と見ることもできる。まず直接的「加害者」としての親に対する復讐であり、結局はしかし、社会に対する復讐だ。
(『子供たちの復讐本多勝一
 われわれは弛緩の時代にいる。ぼくは時代の色彩のことを言っているのだ。(『こどもたちに語るポストモダン』ジャン=フランソワ・リオタール:菅啓次郎訳)
 結局、都市というのは、凡庸であることがひとつの才能と見なされるような場所なのだ。それどころか、凡庸は、都市生活者にとって唯一の有効な才能だ。なぜなら、都市という人間の集積場が、そこに集まる一人ひとりの個人に期待する個性は、不特定多数の他人と似ているということだけだからだ。(『山手線膝栗毛小田嶋隆
「否とよ、恋は路傍の花」(『三国志吉川英治
 この人生を生きていくうえに、人様の喜びを素直に手を取り合って喜び合うことのできない人生、人様の悲しみを悲しんでやることのできない人生、それはわらくず同然だと私は思います。生きていく甲斐のない人生だと思います。(『妻として母としての幸せ藤原てい

藤原正彦
 ロボトミーを開発したポルトガル人の医師エガス・モニスは「一部の精神病に対するロボトミーの治療効果の発見」により、1949年にノーベル賞を受けている。時代の流行というのは恐ろしい。今日ロボトミーは全く行われていない。(『やがて消えゆく我が身なら池田清彦
 一代前の教皇ヨハネ・パウロ1世(在位1978年、俗名アルピーノ・ルチャーニ)は、就任からわずか33日後に不審死を遂げ、〔プリヴァータ・イタリヤーナ銀行事件を起こした〕シンドーナは獄中で、青酸カリという〔リキュール〕の混じった、湯気の立つコーヒーで毒殺された。ほかに、未解決の殺人事件も起きていた。銀行家ロベルト・カルヴィがロンドンの黒人修道士(ブラックフライヤーズ)橋〔=テムズ川にかかる橋〕の下で、息絶えた状態で発見されたのである。
 こうしたスキャンダルが再発する事態はあってはならなかったし、もちろんいまもあってはならない。さもなければ、信者と神の声を広める教会との信頼関係にひびが入ってしまう。もしふたたび沈黙が破られたらどうなるだろう。「知らぬ存ぜぬ」という秘密厳守の態度と、内部の人間どうしの先入観がフィルターになって、いまのところは外から事実が見えにくいようになっている。もしその状況が変わり、バチカンによる経済活動の真実が一瞬でも明るみにでたら、どうなるだろうか。バチカンの役割と機能の正当性を問う声が高まり、イメージ回復にかかる代償は計り知れないものになるだろう。
(『バチカン株式会社 金融市場を動かす神の汚れた手』ジャンルイージ・ヌッツイ:竹下・ルッジェリ・アンナ監訳、花本知子、鈴木真由美訳)

キリスト教
 わずか34階のずんぐりした灰色のビル。正面玄関の上には、〈中央ロンドン孵化・条件づけセンター〉の文字と、盾形紋章に記した世界国家のモットー、“共同性(コミュニティ)、同一性(アイデンティティ)、安定性(スタビリティ)”。(『すばらしい新世界オルダス・ハクスリー:黒原敏行訳)

ディストピア
 実はこのベン=ナメシェの本の一章にあるスパイ・プログラムが扱われているのだ。問題は、このプログラムが「トロヤの木馬」として世界中に売り出されていたことである。そのプログラムの名前は「プロミス」という。しかし市場でうられたときには異なる名前だったようだ。このプロミスは、関係書類は処理したり、報告書などの文書をデータベースに記憶させるソフトウエアだった。(『データ・マフィア 米国NSAとモサドによる国際的陰謀』E・R・コッホ、J・シュペルバー:佐藤恵子訳)
 最澄の父の名は三津首百枝(みつのおびともえ)と伝えられる。三津首浄足(きよたり)という名称が最澄の戸主として記録されているけれども、戸主が必ずしも父であったとはかぎらない。現在の資料ではこれ以上のことはわからないが、三津首家は後漢の孝献帝の子孫である登万貴王を祖先とする家柄であり、応神天皇の時代に来日し、近江国滋賀郡に定着した人々の子孫であろうと推測されている。(『最澄と空海 日本仏教思想の誕生立川武蔵

最澄空海
 20世紀のはじめには、選挙結果や野球の試合のスコアを聞くために、大都市の新聞社の外に群衆が集まるようになった。電信は軍事作戦でも重要な役割を果たした。はじめて使用されたのはクリミア戦争中の1854年、ヴァルナにおいてで、その後はアメリカ南北戦争でも使われている。エイブラハム・リンカーンは、戦場にいる軍隊をホワイトハウスから指揮することができた最初の合衆国大統領となった。電信が登場する以前には、大統領は遠くで行なわれる戦争の戦場報告を数日、ときには数週間も待ったのである。(『黒体と量子猫 ワンダフルな物理史ジェニファー・ウーレット:尾之上俊彦、飯泉恵美子、福田実訳)

科学
発行銀行券」は、形式上では「負債の部」に計上されてはいるが、実質的には返済義務を伴わないので、負債ではないのだ。(『国債を刷れ! これがアベノミクスの核心だ廣宮孝信
 ここで強調しておきたいのは、外交の世界において、論理構成は、その結論と同じくらい重要性をもつということだ。(『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて佐藤優

検察
 だから、マルクス・レーニン主義という顕教の面ではスターリン体制と切れているけれど、密教の面では連続しているわけです。つまり、実は、エリツィン時代、プーチン時代というのは、ユーラシア主義という密教においてスターリン時代と繋がっているんです。(『国家の崩壊佐藤優宮崎学
 どういうことかと言うと、中華人民共和国になってから略字を大幅にとり入れる文字改革が断行されましたよね。どの国でも文字改革というのは、前の歴史との連続性を切断するために行うんです。ですから、中華人民共和国で標準的な教育を受けている人間は、戦前の文献、古代の文献が読めないんですよ。(『国家の自縛佐藤優

中国
(※スリランカ)政府が長年、貧民救済のためと膨大な補助金を出し、財政立て直しの邪魔をしてきた安い小麦粉は「米よりパンを好む金持ちのためよ、調べてごらん」と教えてくれたのも彼女だった。そのとおりの調査結果にアマ(※お母さん)の言葉を添えて提言したら、クマラトンガ大統領は、気付かなかった、恥ずかしい、ミエコのアマに礼を言うと、即時補助金廃止を決断した。その報告に「チャンドリカ(大統領)に、草の根を忘れてはいけない、いつでも私の家に泊めてあげるから、と言ってあげなさい」と、淡々としたアマだった。(『国をつくるという仕事西水美恵子
 いくら目隠しをされても己は向く方へ向く。
 いくら廻されても針は天極をさす。(「詩人」)
高村光太郎詩集高村光太郎

詩歌
 そうとも、その匂いにとらわれるとき、彼を愛せずにいられないのだ。自分と同じ人間として受け入れるだけでなく、狂ったように愛しだす。忘我のきわみに陥るだろう。よろこびにふるえ、陶酔の声をはりあげ、泣き出しさえするだろう。(『香水 ある人殺しの物語パトリック・ジュースキント池内紀訳)
 魂までが凍てついたとしても、
 その先にあるのは破滅ではない。
 命の炎はしっかりと燃えている。
(『荒野の庭』言葉、写真、作庭 丸山健二
(※米・英・露と和親条約を結んだ日本の、国内における擾乱を予想しつつ)
「こういうときにわたしたちはどうしたらよいでしょう、教えていただきたいのです」
「学問に身を入れるのです」
「いえ、いつ擾乱(じょうらん)が起こるかもわからないこの時代を、見て見ぬ振りはできません」
「だから学問をするのです」
「は?」
「力をつけるのです。世の中はこれから大きく変わっていくでしょう、かならず福沢でなければならないということがある。そのときにすぐ役立つためには力をつけておかねばなりません。さらにいうなら、世の中を動かしていく福沢になってほしい。そのために力をつけなさい」
「はい」
「この塾は全精力を注ぎ込んで、一途に学問するところです。勉強は君がするのです」
(『洪庵塾の人々』池上義一)

福澤諭吉
 いまでは、チョムスキーの提起したさまざまな問題を研究する学者の数が、何千人にも達している。チョムスキーは、人文科学分野でしばしばその言が引用される人物トップテンに(ヘーゲル、キケロを抜き、マルクス、レーニン、シェークスピア、聖書、アリストテレス、プラトン、フロイトに次ぐ8位)入っている。しかも、トップテンでただ一人、存命中だ。(『言語を生みだす本能』スティーブン・ピンカー:椋田直子訳)
 もとより記憶とは、自身の内部(なか)に懐かしく立ち現れる、かく在りきイメージの再現行為などではなく、現在(いま)を分水嶺として、はるか前後へと連なっていく大いなる時間に向けて、したたかにかかわっていく心の領域のことだと思うからである。(『犬の記憶森山大道〈もりやま・だいどう〉)
 教条主義のもとでは、教条の正しさの過大評価、教条の適応範囲の過大な解釈(たとえば、物理現象を宗教的原理で説明するなど)、教条の異なる他者への不寛容や加罰傾向が生じる。(『権威主義の正体岡本浩一

権威
 一局終わると体重が2~3キロ減ってしまう。頭を使っていると水分をどんどん取られていくようで体重が落ちてしまうのだ。(『決断力羽生善治

将棋
 被疑者は密室である取調室に閉じ込められてしまうと、心理的に追い詰められてゆく。人間というものは生きている限り、他者とのかかわりのなかにいる。平素はそのことの重大性に気づかないが、法的強制によってそういうかかわりから遮断されると、心の安定性を失い不安でたまらなくなる。妻はこの事態をどう受け止め、どのように処しているのか、子供にはどう説明したのだろうか。同僚は、両親は、親戚は、近所の人は……。
 被疑者は多くの場合、この心理的重圧のなかで自供に追い込まれてゆく。
(『警官汚職読売新聞大阪社会部
 私がよく聞いていようといまいと、母の話は止まらなかった。「種は木から生まれて、やがて木になるわ。種が種であるのは一時的なことでしかないのよ。種から木へ移り変わるのだから、なぜ種であることにとらわれるのかしら? 同じように、私たち人間それぞれも個別性を持っているけれど、その個別性は一時的なものでしかないのよ。私たちの個別性は実際とは違って見かけだけかもしれないわ。坊やは、私がいなかったら存在するかしら? あなたが食べている食べ物なしに存在するかしら? 自分が座っている地面なしに存在するかしら? 私たちの個別性は実際には他者に依存しているのよ。個別性は他者とは分けられないものなの」
 母は無学だったが、ジャイナ教の文学の多くの歌や詩、韻文を諳(そら)んじていた。
(『君あり、故に我あり 依存の宣言サティシュ・クマール:尾関修、尾関沢人訳)
 縁起という思想は釈迦の時代からあったが、空の思想は原始仏教、部派仏教においてはそれほど大きな存在ではなかった。無我思想、非我思想というのは実質的には空の思想と同じ意味を持っているものであり、そういう意味では大きな思想であったが、竜樹までは縁起ということと空ということは違う流れとして伝えられてきた。竜樹は歴史的には別であった二つの思想を結びつけたのである。(『空の思想史 原始仏教から日本近代へ立川武蔵

仏教
 しかし、授業の中で子どもが集中するちからをもっているというのは、可能性としてもっているので、教師がきびしく授業を組織するのに成功するときだけ、それは引き出されて現前する。(中略)子どもが集中する力をもっているということは、集中すべき対象があるときには集中するということで、それは同時に、その対象が欠けているときには、とめどもなく散乱する。どうしようもなく散乱するということなのです。それがすなわち子どもが集中する力をもつということなのです。集中すべき対象が欠けているときでも、「集中」しているというのはウソです。にせものです。行儀よくしていることと集中していることとは全く別の事です。(『教育の再生をもとめて 湊川でおこったこと林竹二

教育
 インドにしても中国にしてもそうですが、それまで大英帝国に対抗できるような国はアジアに存在しないと考えられていました。それを日本がものの見事にやってのけた。その衝撃と影響は東南アジアから中東にまで及んでいるのです。それは米英からみれば、日本ほど恐ろしい国はないということになります。日本を二度と立ち上がれないように封じ込めなければならない、と。そして日本の敗戦後、ただちに大日本帝国を五つに分割し、日本を断罪するための極東軍事裁判(東京裁判)を開きました。(『この国を呪縛する歴史問題菅沼光弘
野口●僕の言うことはいつも結論が出せないんです。唯未決定論ですね。本書にも書きましたが、唯情報論は言い換えれば、唯差異論、唯変化論、唯流動論、唯関係論……和語で言えば、唯こと論です。「こと」というのは漢字をあてはめるとわかりやすいです。言葉の言(こと)、事柄の事(こと)、事実の事(こと)、異なるの異(こと)、殊にの殊(こと)、和語ではこれらの意味すべてをひっくるめて「こと」と言っています。和語はそういうふうに意味の範囲が広い。「ことば」という言葉は、このような「こと(差異)」の端を全体から抽き出して名づけたものだと言えるでしょう。(『原初生命体としての人間 野口体操の理論』野口三千三)
そしてまたこの息 ――息、消える、呼吸するために。呼吸、そして消える。――この息、まさにこの瞬間、詩が持つであろうことば、詩が持つようにおもわれることば、とどめられたことばを見て、わたしたちがわたしたちの終わりが遂げられた、と考える、その瞬間のなかに。(『デュブーシェ詩集 1950-1979』アンドレ・デュブーシェ:吉田加南子訳)
 私の基本的な考え方は、あなたがトレードしているのは市場ではなく、あなたがトレードできるのはマーケットについてあなたが信じていることだけであるということだ。(『新版 魔術師たちの心理学 トレードで生計を立てる秘訣と心構えバン・K・タープ
 とはいえ、同じキリスト教ならば、プロテスタントよりはカトリックの方が、バランスが取れていると私は思います。なぜなら、カトリックは聖職者というプロの階級を通して神と信者がつながっている。ところが、プロテスタントでは信者と神が直接つながりますから、プロ(聖職者)による調整が行われず、信者は「自分が聞きたいと思う神の声」を聞いてしまう。これは非常に危険なことです。私のもっとも嫌いな「狂信」へと暴走しかねない。(塩野七生)『ヴァチカン物語塩野七生、藤崎衛、ほか
 恐ろしい戦争は恐ろしい結末を迎えることとなった。アメリカ原子爆弾を最初に広島に、続いて長崎に落とした結果、20万人もの人びとが瞬時に殺された。その後、さらに何万人もの人が原子爆弾の後遺症で死んだ。

「願わくは、原爆投下が神の貴き目的実現のための御業であらんことを」ハリー・トルーマン大統領

 原爆投下以前に、日本の敗戦はすでに確実になっていた。原爆投下の主な目的は、アメリカのあたらしい大量破壊兵器の恐るべき殺人力を世界に見せつけることにあった。

(『戦争中毒 アメリカが軍国主義を脱け出せない本当の理由』ジョエル・アンドレアス:きくちゆみ、グローバルピースキャンペーン有志訳)
 視覚は神経疾患の影響を受けることが多い。それどころか眼は、実は脳の一部なのだ。(『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人リチャード・E・サイトウィック:山下篤子訳)

脳科学共感覚
 その年の9月1日、日本では関東大震災が起こっていた。大震災のニュースはベルリンにも届いた。しかし、現在ほど通信が発達していなかった当時、日本で起こった地震は富士山すらも吹き飛ばしたと書き立てられた。東京からの電報為替も一時不通になった。(『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯中丸美繪

斎藤秀雄
 そういう意味で人間は「言葉する存在」です。
 その言葉は、世界を切り取って名付けていく単語つまり語彙と、文体(スタイル)からなり、これらのあり方が人間の思考を決定づけています。文体というのは語彙を載せる船のようなもので、その船が思考の枠組みとして、あるいは文化として一番大きな力を持っています。われわれはその船を離れて思考することはできません。思考や行動は具体的な言語のなかに微粒子的に存在し、これと一体のもので、自分たちの文体のあり方をどのように変えていくかを考えないかぎり歴史が変わっていくことにはなりません。またこのことは、人間の歴史が、言葉(語彙と文体)から離れられず、したがって言葉の枠組が変われば、歴史もまた異なった姿であらわれる事実を意味します。
(『漢字がつくった東アジア石川九楊
 鎌倉仏教のなかで、法然親鸞は他力の信仰を求めて生き、道元日蓮は自力の修行に打ちこんだ。法然と親鸞とは、この世の価値を究極的に否定し、道元と日蓮は、あの世の実在を否定した。同じ鎌倉仏教と呼ばれる宗教から、どうしてこうもちがった考え方が選びだされたのであろうか。そのひとつの重大な理由は、法然、親鸞が乱世に際会し、道元、日蓮が鎌倉政権安定後に活躍した、という歴史的背景の差異に求められる。乱世は人間に無力をさとらせ、治世は人間に努力の意義を呼びさますからである。(『鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮戸頃重基
 キャンプへ、私は抱え切れないくらいたくさんの本を持って行った。とはいっても、人を教えるのに役に立ちそうな知識を本から吸収してやろう、という欲張った考え方からではない。荒川さんから教わった指導者の心得に従ったまでだ。
「選手と一緒に行動する時は麻雀はするな。退屈したら本を読め」
 と荒川さんはいっていたのである。麻雀をしてはいけないという理由は、
「キャンプや遠征先の宿舎の部屋へは、いつ選手が訪ねてくるかわからない。そういうとき、麻雀をしていて“ちょっと待ってろ”というのでは、人を指導する資格はない。部屋まで訪ねてくるような選手は十人中十人までが何か悩みごとや相談ごとをかかえているものだ。そういう選手の相手をしてやれないようでは、指導者としては落第である。また、どんな優れた指導者でも、心が通じ合わなければ、なにごとも成し得ない。せっかく部屋まで訪ねてきた選手の意欲まで、たかが遊びの麻雀くらいで潰してしまってはいけない」
 というものである。
(『回想王貞治
 終戦直後から今日まで、延々と繰り返されている反日史観(日本断罪史観)の根底は、東京裁判史観と1932年(昭和7年)のコミンテルン・テーゼ(「32年テーゼ」)にある。
「32年テーゼ」とは、ソ連共産党が日本共産党に与えた指令書で、日本を強盗国家・封建的帝国主義国家と一方的に弾劾(だんがい)したものである。しかも、証拠も根拠もお構いなし。終始、嘘でかためた言いっ放しにすぎないが、以来、この指令書は反日的日本人の“聖典”とされつづけた。日本人の「自虐の系譜」はかくも根深い。自国の歴史を他国からズタズタに干渉されることを容認するばかりか、狂喜乱舞してこれに飛びつく――。
(『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は、滅亡する小室直樹

日本近代史
菅沼――除染は鹿島などの大手ゼネコンが元請けをしています。さらに福島原発を廃炉にするということになると、誰が廃炉にするかといえば、国内では東芝や日立製作所、三菱重工、あるいはフランスのアレバやアメリカのGEです。つくるのも利権ですが廃炉にするのも利権なのです。
 しかも廃炉にする方が、もっと莫大な金がかかるそうです。原子力村という言葉がありますが、廃炉もあいかわらず原子力村の利権になってしまう。脱原発も原発推進派、原子力村の利権になるわけです。
(『この世界でいま本当に起きていること中丸薫菅沼光弘
菅沼●とにかく今の麻薬取引はみんなにせ札で行われているんです。
 例えば、東南アジアで昔からいろんな取引があったでしょう。そこではにせ札が本当の通貨として流通している。これは一体何だ。
 ドルというのは日本の日銀券と違うんです。あんなものは私的な銀行のものですよ。バンクノートですよ。香港のホンシャン銀行が出している香港ドルと同じです。よく言われているように、CIAの活動資金は、みんなにせ札です。だって、基軸通貨だからアメリカはどんどんドルを出せる。アメリカのCIAが使っているおカネは全部自分たちでつくったおカネ。昔のKGBも、どんどんスーパーKをつくった。そのKGBの印刷機を北朝鮮はいただいちゃった。
(『国家非常事態緊急会議 日本人よ! こうして植民支配のくびきを断て!菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄)
 こんなふうに情報を「ごちゃまぜ」に入れておいて大丈夫かと思うかもしれませんが、大丈夫です。いや「ごちゃまぜ」だからこそ、どんなジャンルの本の読書メモでも、どんな内容のしごとでも、何についてのアイデアだろうと、【「どこに書けばいいのか」と迷うことなく、すぐさま1冊のノートに入れることができるのです】。(『情報は1冊のノートにまとめなさい 完全版奥野宣之
 読書メモを手で書くのは面倒ではないか、と思う人は多いでしょう。
 僕もよく億劫(おっくう)に思います。
 しかし【「面倒だからこそ身につく」】ということも言えるのです。山の頂上にロープウェイで行くのと苦労しながら自分の足で行くのとでは、結果は同じでも、体験としては、またく違うものになるでしょう。そうやって手間暇かけることで、はじめて十分な見返りが得られるという一面もあるわけです。
 本の抜き書きをしたり、感想を手で書き残すことはただの「作業」ではありません。
 確実に、【将来のアウトプットの仕込み】になるのです。
(『読書は1冊のノートにまとめなさい 完全版奥野宣之
 疲労は人を感傷的にさせる。極度の疲労は人を詩人にする(徹マンも二晩目にはいるとすべての言葉は詩に近づいてゆく)。(『我が心はICにあらず小田嶋隆
「交換価値は価値の現象形態にすぎず、〈価値〉ではない」と、1879年から80年にかけて書かれた「アードルフ・ヴァグナー著『経済学教科書』への傍注」(杉本俊朗訳、『マルクス=エンゲルス全集』第19巻、所収、大月書店)のなかでマルクスははっきりとのべている。(『貨幣論岩井克人
 著名な民族音楽学者ブルーノ・ネトルは、音楽を“言語の埒外にある、音による人間のコミュニケーション”と定義した。おそらく、これより妥当な定義は無理だろう。(『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化スティーヴン・ミズン:熊谷淳子訳)
 アネモネカタクリヤマブキソウキツネノカミソリキリンソウツリガネソウ……。
 おじいさんはぼくたちの知らない草花の名前を、次から次へと並べた。ぼくたちはそれぞれの花畑を夢見ながら、何もなくなった庭に降る雨をただ見ていた。すっかり生まれ変わり、新しく何かが根づくことを待っている土に、天から水がまかれる音を耳を澄まして聞いていたのだ。
(『夏の庭 The Friends湯本香樹実
「いずれにせよ、常に断崖の縁を歩いてきた人間にとって、最大の緊急事態も、いわば日常茶飯の出来事にすぎません」(『永遠の都ホール・ケイン:新庄哲夫訳)
 感動というコトバがブームなのか知りませんが、以前はスポーツ選手が「感動を与えたい」などと口にはしなかったと思います。感動する、しないは受けるほうの自由なのですから、謙虚な気持ちがあればそんなことは言わないはずです。
 それにしてもここまで日本人は感動に飢えているのかと言いたくなります。感動を与えてもらいたいほど感動のない生活をしているということかもしれません。しかし感動は与えられるものでなく、みずから動いてつくっていく積極的なものであるはずです。何かを感じて動くことで湧いてくるものです。感動は人から簡単に与えられるほど安直なものではないのです。
(『運に選ばれる人  選ばれない人桜井章一
 わが国最初の火葬例は、公式記録によれば、文武4年(700)に死んだ元興寺(がんこうじ)の僧道昭(どうしょう)である。(『隠された十字架 法隆寺論梅原猛
 戦争がだんだんはげしくなってきて、これは、敗けるかも知れないという重苦しい気持が、じわじわと、みんなの心をしめつけはじめるころには、もう私たちの心から、〈美しい〉ものを、美しいと見るゆとりが、失われていた。
 燃えるばかりの赤い夕焼を美しいとみるかわりに、その夜の大空襲は、どこへ来るのかとおもった。さわやかな月明を美しいとみるまえに、折角の灯火管制が何の役にも立たなくなるのを憎んだ。
 道端の野の花を美しいとみるよりも、食べられないだろうかと、ひき抜いてみたりした。
(『一戔五厘の旗花森安治
 頭が痛い、肩がこる、冷える、肌が荒れる、生理不順など、病名がつくほどではないけれど、どうにかしたい不快な症状……これらはすべて脳から発せられるSOSのサインだと思ってください。不調が生じるのは、脳が「ここを見て!」と声を上げているのです。このサインを軽視してはいけません。放っておくと症状はどんどんエスカレートして、取り返しがつかないほど進んでしまいます。
 そこで、ツボです。サインを敏感に察知する方法として、ツボはとてもいいのです。脳には体中の情報が集まっていますが、脳は神経とつながっており、神経は、体中のたくさんのツボとつながっているのです。
(『一目でわかる! 必ず見つかる! ホントのツボがちゃんと押せる本加藤雅俊
 書くことは、欠く、掻く、画く、描くに通じるかくこと。土地をかくことが「耕」。「晴耕雨読」は、耕すことが書くことを含意し、東アジア漢字(書)言語圏に格別の言葉である。(『一日一書石川九楊
 ローマ人は市内になだれこんだが、アルキメデスは周囲のパニックを気に掛けなかった。地面に座り、砂のうえに円をかいて、ある定理を証明しようとしていた。服を汚した75歳のアルキメデスに、一人のローマ兵が、ついてこいと命じた。アルキメデスは拒んだ。数学的証明がまだ終わっていなかったからだ。怒った兵士はアルキメデスを斬り殺してしまった。かくして、古代世界最高の知性はローマ人によって不必要に殺されるという形で死んだのだった。(『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念チャールズ・サイフェ:林大訳)

数学
 あらゆる人間が、建設的で心暖まる話しか話題にしないような、そんな世の中が理想だと考える連中がいるのは仕方がないにしても、すべての人間にそうしたふるまいを強要する権利は誰にもないはずだ。
 言うまでもないことだが、この世の中には、人間がした行為を裁く法律はあっても、人間がアタマの中で考えていることを裁く法律はない。
 ところが、今回の事件を通じて、あなたがた(と、ついに二人称を使いはじめる)がしようとしたことは、ミヤザキ(※宮崎勤)の行為をではなく、ミヤザキの生活姿勢や性格や家庭環境を裁くことであり、彼のアタマの中味を裁くことだった。
 ということはつまり、我々(いっそ、一人称を使うことにしましょう)は、ミヤザキのみならず、人間一般の「孤独」を裁こうとしたということなのだ。
(『安全太郎の夜小田嶋隆
 彼女(※鶴見和子)は大腸癌でまもなく亡くなりましたが、その前にリハビリを打ち切られ、とうとう起き上がれなくなった現実が深く影を落としています。直接の死因は癌でも、間接的にはリハビリ打ち切りがこの碩学を殺したのです。
 彼女も生前しきりに「小泉に殺される」といっていたそうです。
(『わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか多田富雄
ジェノサイドが始まった直後)私たちの羊飼いは子羊を見捨てた。さっさと逃げてしまった。子供を連れて行くことさえしないで、私には、両司祭が私たちを見捨てた事実を理解することも受け入れることできなかった。二人は小型バスに乗る前に、誰にともなくこう言った。
「お互いに愛し合いなさい」
「自分の敵を赦(ゆる)してあげなさい」
 自らの隣人に殺されようとしているその時の状況にふさわしい言葉ではあったが、それは私たちを取り囲んでいるフツ族に言うべきだろう。
 司祭の一人はベルギーに避難した後、こうもらしたという。「地獄にはもう悪魔はいない。悪魔は今、全員ルワンダにいる」と。神に仕える者が、迷える子羊たちを荒れ狂うサタンの手に引き渡すとは、感心なことだ!
 ある修道女もトラックに乗る前に、周りに殺到してきた人々に向かって「幸運を祈ります!」と言っていた。ありがとう、修道女様。確かに幸運が来れば言うことなしなのだが。
(『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記レヴェリアン・ルラングァ:山田美明訳)
 早期リハビリテーションと称して急性期に早期起立や早期歩行を求めると、脳の自然回復を遅らせる可能性がある。さらに、早期起立や早期歩行は「痙性(spasticity)」という異常な緊張感を増悪させる主原因となる。痙性がどれほど患者の動きを制限するか、また一度発現するとその異常な筋緊張の制御がどれほど困難であるかは、臨床で働くセラピストなら誰もが知っているはずである。(『リハビリテーション・ルネサンス 心と脳と身体の回復、認知運動療法の挑戦宮本省三

リハビリ
 しかし、障害をもったとしても、障害というものは、その人の全体の中のごく一部にすぎない。その人自身の価値(存在価値)は、まったくそこなわれていない。それなのに、障害によって失ったものだけに目を向けてしまうのは偏った価値観に支配されているからである。
 そのような状態から立ち直るということは、結局、価値観を転換するということが基本になる。単に、弱い気持ちを強い気持ちにするということではない。これまでの人生観そのものを根本から変えるわけであるから、これが実は、一番難しいことかもしれない。
(『リハビリテーション 新しい生き方を創る医学上田敏

リハビリ
 ヨーロッパ各地でナチスが虐殺したユダヤ人の数

 ドイツ 18万人
 オーストリア 5万人
 チェコスロヴァキア 25万人
 フランス 6.5万人
 ルクセンブルク 3000人
 スカンディナビア 7万人
 オランダ 10.2万人
 イタリア 9000人
 ユーゴスラヴィア 5.1万人
 ギリシャ 6.2万人
 ルーマニア 20.9万人
 ハンガリア 19万人
 ブルガリア 5000人
 ソ連 75万人
 ベルギー 3万人
 計 447万9700人

(『新版 リウスのパレスチナ問題入門エドワルド・デル・リウス:山崎カヲル訳)

パレスチナ
 人が体験するのは、生の感覚データではなく、そのシミュレーションだ。感覚体験のシミュレーションとは、現実についての仮説だ。このシミュレーションを、人は経験している。物事自体を体験しているのではない。物事を感知するが、その感覚は経験しない。その感覚のシミュレーションを体験するのだ。
 この見解は、非常に意味深長な事柄を述べている。すなわち、人が直接体験するのは錯覚であり、錯覚は解釈されたデータをまるで生データであるかのように示す、というのだ。この錯覚こそが意識の核であり、解釈され、意味のある形で経験される世界だ。
(『ユーザーイリュージョン 意識という幻想トール・ノーレットランダーシュ:柴田裕之訳)

認知科学
 1995年にオクラホマ・シティの連邦ビルを爆破した犯人、ティモシー・マクベイがすぐに逮捕されていなかったら、米国はミシガン州を初め(ママ)とする、マクベイが故郷と呼ぶ場所を攻撃しただろうか。そんなことはしない。マクベイを発見して処罰するまで、大規模な捜査をするだけである。けれども、米国は、アフガニスタンに関して、タリバン政権を支持する人々を、アフガニスタン人であろうと外国人であろうと「テロリスト」であるとし、法的ではないにせよ道徳的に、9月11日の惨劇か、そうでなければ過去の反米テロリズムに関わっていると決めつけた。そして、アフガンへの攻撃は、フェア・ゲームであるとしたのである。(『アメリカの国家犯罪全書』ウィリアム・ブルム:益岡賢訳)
ひろさちや●1232年(貞永元年)に「貞永式目」(正しくは「御成敗式目」)が制定されると養老律令が停止されてしまう。ですから、法然上人、親鸞聖人が島流しになったときは、まず僧籍を剥奪して、そして一般人に戻して流罪という刑罰を科しています。これは、僧にはいきなり国家権力は介入できない。教団は治外法権ですから。だから、一遍、僧を俗人に戻さないといけない。そうじゃないと処分できないわけですね。ところが「御成敗式目」以後はそうではない。日蓮はいきなり「首切り」の処分を受ける。これは単に悪口を言った、治安を乱したというだけでの処刑ですね。ですから、養老律令に照らしての処分じゃない。ただ軍事政権が、戒厳令政府が勝手にやったものですね。(『ものぐさ社会論 岸田秀対談集岸田秀
 美しい自然を眺め、或いは、美しい絵を眺めて感動した時、その感動はとても言葉で言い表せないと思った経験は、誰にでもあるでしょう。諸君は、なんとも言えず美しいと言うでしょう。このなんとも言えないものこそ、絵かきが諸君の眼を通じて直接に諸君の心に伝えたいと願っているのだ。音楽は、諸君の耳から這入って真直ぐに諸君の心に到り、これを波立たせるものだ。美しいものは、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵や音楽が本当に分かるということは、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味わうことにほかなりません。(『モオツァルト・無常という事小林秀雄
(氾濫する科学情報を識別するための十カ条)
 1.懐疑主義を貫き、多様な情報を収集して自分自身で判断する
 2.「○○を食べれば……」というような単純な情報は排除する
 3.「危険」「効く」など極端な情報は、まず警戒する
 4.その情報がだれを利するか、考える
 5.体験談、感情的な訴えには冷静に対処する
 6.発表された「場」に注目する。学術論文ならば、信頼性は比較的高い
 7.問題にされている「量」に注目する
 8.問題にされている事象が発生する条件、とくに人に当てはまるのかを考える
 9.他のものと比較する目を持つ
 10.新しい情報に応じて柔軟に考えを変えてゆく
(『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学松永和紀
 かつて(1989年)天安門事件というのがありました。そのときに、天安門を占拠した若い学生のなかから「中国共産党打倒」のスローガンが出たのですね。これに、その当時の、鄧小平を中心とする古い指導者たちは物凄くショックを受けたわけです。そこで、鄧小平たちが考えたのは、「これでは駄目だ。若者に愛国教育をやらんといかん」ということでした。愛国教育とは、「中華人民共和国をつくるについて(ママ)、中国共産党が日本軍国主義の侵略を排除するためにどれだけ苦労したか」ということを教えるということです。
 つまり彼らの言う愛国教育というのはイコール反日教育です。これを江沢民体制の10年ずっとやってきた。そして、今も続けています。
(『日本を貶めた戦後重大事件の裏側菅沼光弘
 知は力である。
 人間の知がライオンの筋肉を打ち砕き、いとも簡単に檻の中に閉じこめることができる。信じられないことだが「知」は現実の世界では「力」として働くのである。
 そして、「知イコール力」という原理原則がはたらく(ママ)のは暴力の世界だけではない。お金の世界でも同じことである。知を獲得した物が他を圧倒する。
(『国債は買ってはいけない!武田邦彦
 六者協議の実質は、いまやアメリカロシア中国、朝鮮で構成される「核クラブ」によって、日本の核武装を封じ込めるための国際機構になりつつあります。六者協議の共同声明にある「北東アジア地域の永続的な平和と安定のための共同の努力」というのがまさにそれです。日本の核武装を封じ込め、日本の発言力を低下させ、金だけを出させる仕組みにしようととしている。このままでは日本は拉致問題はおろか、北朝鮮の核問題に対しても何の発言力もなく、お金だけむしり取られるカモという状態になります。(『日本人が知らないではすまない 金王朝の機密情報菅沼光弘
 国家による組織的宣伝は、それが教育ある人びとに支持されて、反論し難くなったら、非常に大きな効果を生む。この教訓は、のちにヒトラーをはじめとして多くの者が学び、今日にいたるまで踏襲されている。(『メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会ノーム・チョムスキー鈴木主税訳)

メディアプロパガンダ
 もし日本が核武装したとき一番最初にどこを核攻撃するか。平壌や北京ではなく、ニューヨークやワシントンに飛んでくると、アメリカは本気で考えているのです。それはなぜか。「報復」という言葉があります。「目には目を。歯には歯を」つまり広島、長崎です。我々は一切意識していないが、アメリカ陸軍の刑法典には、「報復は正義」と書いてある。報復は認められ、許されるんです。我々がアメリカにやられたということで、日本がアメリカに核兵器を撃ち込むということは違法にはならない。今、日本が核を落とされた唯一の国として、本当に心から全世界の平和を求めて、核を持たないことを宣言して、崇高なる平和国家として世界に立ち向かおうとしていますが、世界はそれを信じていないというのが現実です。したがって、責任ある政治家としては、核武装を一方的に主張することはできない。(『この国のために今二人が絶対伝えたい本当のこと 闇の世界権力との最終バトル【北朝鮮編】中丸薫菅沼光弘
 男にしろ女にしろ、五十代になれば、人は真の貌(かお)をもつ。その貌には明達(めいたつ)が欲しいものである。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 若いうちに幸運をつかまされた者に、人生がもっている幽玄な綾(あや)はわからない。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 復讎(ふくしゅう)は道義上赦(ゆる)されても、それをおこなうことによって、自分の何か肝心なものが死ぬ。怨みは、じっとかかえているのがよく、それを晴らさぬがゆえに、人を強く生かしつづける。怨みを晴らせば、生命力が殫尽(たんじん)する。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 やまい、についていえば、史書にかぎらず明確に書きわけられていて、病(へい)、は重病、重態で臨終が近いことを示している。死に至るやまいでないもおのは、疾(しつ)と書かれる。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
「運には盛衰がある。しかし徳には盛衰がない。徳はかたちのない財だ。その財を積むにはしかず、だ」(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 人が人に遭遇することは、小さな奇蹟を産む。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
「決断をおこなえぬ王の下ではかならず奸臣(かんしん)がはびこる」(『奇貨居くべし宮城谷昌光
「いまおっしゃったことは、わたしばかりでなく、天も聴いていたでしょう。言動が天を振(うご)かせば、かならず天祐(てんゆう)に遭います」(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 ――あのふたりは、何かにとらわれている。
 ふたりは意のままに行動しているようにみえていながら、目にみえぬ大きな檻(おり)のなかで右往左往しているにすぎない。
(『奇貨居くべし宮城谷昌光
「賈市は最初の歩幅が肝心です。その歩幅が小さければ、ゆきつく先は、たかが知れている。大胆に踏みだしておく。この歩幅に馴(な)れることです」(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 かれは人をくるむような微笑をもっている。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 時代を超え、デマレストの教えが蘇る――一つの方法に捕われるな。考え方を変えろ。一羽の黒い鳥ではなく、二羽の白い鳥を見ろ。一切れがなくなったパイ全体ではなく、一切れのパイを見るんだ。ネッカーの立方体(透明な立方体の線画。見方によって向きが逆になる)の内側ではなく、外側を見てみろ。形態(ゲシュタルト)を把握するんだ。それで自由になれる。(『メービウスの環ロバート・ラドラム:山本光伸訳)
「ソ連軍の攻撃下で、食物がなくラワシイ(ワラビに似た植物)や草を食べていた。エネルギーが尽きかけていた時、マスードが、5~6人の戦士とやってきた。我々に食物がないのを知ると、彼の持っていた食物をすべて置いていった。それで我々は力を得て、また戦った。私は知っている。彼が勇敢で偉大な人であるということを。彼のような人は、アフガンの歴史の中でもう生まれないだろう。彼の能力が全アフガニスタンに広がればよいと思う」(マラスパの地区司令官、モスリム)『マスードの戦い長倉洋海
 人は会社を辞めるのではなく、そのマネジャーと別れるということだ。かつては優秀な人材を引き留めるために莫大な金が投入されてきた。給与を上げ、特典を与え、高度なトレーニングを提供するなどの手を打つためだ。ところが定着率は、たいていの場合マネジャーの問題なのだ。もし定着率が悪かったら、まずマネジャーに注意を向けるべきだろう。(『まず、ルールを破れ すぐれたマネジャーはここが違うマーカス・バッキンガム&カート・コフマン:宮本喜一訳)
 ジョン・スチュアート・ミルがはるか昔に理解したように、継続的な批判に晒されない真実は、最後には「誇張されることによって真実の効力を停止し、誤りとなる」のである。(『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたちノーマン・G・フィンケルスタイン:立木勝訳)

ユダヤ人ホロコースト
 1920年代のはじめに、あるジャーナリストが(アーサー・)エディントンに向かって、一般相対論を理解しているものは世界中に3人しかいないと聞いているが、と水を向けると、エディントンはしばらく黙っていたが、やがてこう答えたそうだ。「はて、3番目の人が思い当たらないが」。(『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまでスティーヴン・ホーキング:林一訳)

相対性理論
 言葉の歴史の分析から得られるこのような特色は、おそらく今日にいたるまで続いている日本人の美意識の特質を物語るものとしてきわめて興味深い。その特質とは、第一に、「うつくし」がもともと愛情表現を意味する言葉であったことからも明らかなように、きわめて情緒的、心情的であるということであり、第二に「くはし」「きよし」に見られるように、日本人は、「大きなもの」「力強いもの」「豊かなもの」よりも、むしろ「小さなもの」「愛らしいもの」「清浄なもの」にいっそう強く「美」を感じていたということである。このことは、西欧の美意識の根となったギリシャにおいて、「美」が「力強いもの」や「豊かなもの」と結びついていたのと、対照的であると言ってよいであろう。(『増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い高階秀爾
 なぜ、そうなるのか。私に言わせれば、原因は一つです。日本人は総論、つまり「あれか、これか」という基本的な決断を避け、つねにまとまりのない各論の話に陥っていくからです。政策においても大きな国家的立場や国益を意識せず、決断を要する総論は措(お)いて小さな細部から作り上げていく。(『日本人として知っておきたい外交の授業中西輝政

日本近代史
 だが、おそらく歴史的には、リービヒ(※ドイツの化学者)の偉業よりも、初期の技術学校や『百科全書』が行ったことのほうが重要だった。数千年にわたって発展してきたテクネ、すなわち秘伝としての技能が、初めて収集され、体系化され、公開された。技術学校や『百科全書』は、経験を知識に、徒弟制を教科書に、秘伝を方法論に、作業を知識に置き換えた。これこそ、やがてわれわれが産業革命と呼ぶことになったもの、すなわち、技術によって世界的規模で引き起こされた社会と文明の転換の本質だった。(『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するかP・F・ドラッカー上田惇生訳)
 まず、第一の修行は、相手の話を「素直に」聞くことです。相手に反論したいときも、話をよく聞いてあげると、相手の意見も自然とおだやかになり、反論しなくてすむことのほうが多いのです。これが聞き上手のだいご味なのです。(『プロカウンセラーの聞く技術東山紘久

カウンセリング
 要するに彼らは、「スズメのように食べ、ゾウのように排便する」トレーダーなのだ。これでは口座が持ちこたえられるはずがない。さらに悪いことに、感情の奴隷になるというこの悪循環は、まともにぶつかって気づかされるまで終わることはない。(『フルタイムトレーダー  完全マニュアル 戦略・心理・マネーマネジメントジョン・F・カーター:山下恵美子訳)

投資トレード
 自分に頼れ。他のものに頼るな。「自分に頼れ」というのはどういうことか。それは、自分を自分たらしめる理法、ダルマに頼るということである。(『ブッダ入門中村元

ブッダ
 友とは暗闇の中ですがりつく対象ではありません。携帯で呼び出すと、飛んでくるだけの人ではありません。もちろん、友はそういうこともしてくれます。でも、それだけでは「都合の良い人」であっても友ではありません。(『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う友岡雅弥

ブッダ宗教
 イアンブリコスによれば、ピュタゴラスは即座に鍛冶屋に駆け込むと、ハンマーの音の響き合いを調べはじめた。そして、ほとんどのハンマーは同時に打ち鳴らされると調和する音を出すのに対して、ある一つのハンマーが加わったときだけは必ず不快な音になることに気づいたのである。彼はハンマーの重さを調べてみた。その結果、互いに調和し合う音を出すハンマー同士は、それぞれの重さのあいだに単純な数学的関係のあることがわかった――ハンマーの重さの比が簡単な値になっていたのだ。たとえば、あるハンマーの重さに対して、その2分の1、3分の2、4分の3などの重さを持つハンマーはいずれも調和する音を出す。一方、どのハンマーといっしょに叩いても不調和な音を出すハンマーは、ほかのハンマーと簡単な重さの比になっていなかったのだ。
 こうしてピュタゴラスは、和音をもたらしているのは簡単な数比であることを発見した。科学者たちはイアンブリコスのこの記述に疑問を投げかけているけれども、ピュタゴラスが一本の弦の特性を調べ、音楽における数比の理論をリラに応用したのは確からしい。
(『フェルマーの最終定理サイモン・シン:青木薫訳)
「スー族には、ある程度、中央集権的な政治制度があった。征服者に対して短い期間、見事に抵抗したけれど、実際には10年もたなかった。ところがアパッチ族は、何百年も征服されることなく戦い続けた」。アパッチ族が生きのびたのは、「政治権力を分散して、なるべく中央集権を避けていた」からだという。(『ヒトデはクモよりなぜ強い 21世紀はリーダーなき組織が勝つオリ・ブラフマン、ロッド・A・ベックストローム:糸井恵訳)

インディアン
 物理学化学は不変の実体という夢を追い続け、ほぼその夢を実現しつつある。翻(ひるがえ)って生物学をみれば、生物は物質と同じレベルの同一性を担っているわけではない。確かに、生物を構成する部品である水やタンパク質やDNAは、さしあたって構造が確定した、とりあえずの同一性を保つ物質である。しかし、タンパク質やDNAそのものはもちろん生物ではない。生物の本質は物質とは独立の霊魂であるとの考えを採らなければ、生物は確かに物質のみで構成されている。しかし、たとえば細胞は、生きて動いている限り、決して構造が確定した物体ではない。ならば細胞とは何か。それは細胞を構成する物質(主として高分子)間の関係性であると、さしあたっては考えるより仕方がない。(『生物にとって時間とは何か池田清彦
 以上の事例が示すことは、たいていの階層社会にあっては、有能すぎる者は無能な者よりも不愉快な存在だということです。
 通常の無能人間は、これまで見てきたとおり、クビの対象にはなりません。たんに出世できないだけです。ところがスーパー有能人間は、解雇されてしまうことが少なくありません。なぜなら、スーパー有能人間は階層社会を崩壊させ、それゆえ、「階層は維持しなければならない」という「階層社会第一の掟(おきて)」に違反するからです。
(『ピーターの法則 創造的無能のすすめローレンス・J・ピーター、レイモンド・ハル:渡辺伸也訳)

【の法則】
 眺めていると、アイダはさっきの楽節をさらに数度繰り返し弾いた。それからいきなり、迫りくる怒涛のような章に突入した。音楽が築かれ、迸(ほとばし)った。華やかなアルペジオを貫く叩きつけるような不協和音、余韻を全く残さずに鋭く断ち切ったフォルテッシモ、そして再び叫び、歌い出す。だが、常に冷ややかな嘲笑をもってコントロールされていた。(『ピアノ・ソナタS・J・ローザン:直良和美訳)
「分割して統治する」をモットーとするイギリスは、基本的にはユダヤ人移民を歓迎した。ヨーロッパからの移民は、イギリスの後ろ盾を受けて入植してきたし、彼らが現地に住むパレスチナ住民と摩擦を起こすことは、イギリスにとっては有利なことだったからである。独立を求める強いアラブは、望ましいものではなかった。パレスチナ内部に撹乱要因をつくって、消耗させることが必要だったのだ。(『パレスチナ 新版広河隆一

パレスチナ
 本物の逆説の単純な例は、「嘘つきの逆説」である。エウブリデスという紀元前4世紀のギリシア哲学者が考案したこの逆説は、誤ってエピメニデスのものとされているが、エピメニデスは仮託された語り手にすぎない(プラトンの対話篇に出てくるソクラテスのようなものだ)。クレタのエピメニデスは、「クレタ人はみな嘘つきだ」と言ったとされる。これを完全な逆説に転換するために、少しずるをして、戯れに、嘘つきとは、言っていることがすべて本当ではない人のことだと定義しよう。するとエピメニデスは、要するに「私は今嘘をついている」、あるいは「この文は間違っている」と言っていることになる。(『パラドックス大全ウィリアム・ストーン:松浦俊介訳)
 私のような無責任な面白がりは、絶対に戦争をしないのだ。ゲームにはつき合っても戦争にはつき合わないのである。
 歴史を振り返ってみれば明らかな通り、戦争は、戦争を「面白がる」余裕なんてさらさら持ち合わせず、眉間にしわを寄せてリキみ返り、「正義の感情」にたやすく身を焦がし、そして、最終的には「平和を守る」ために「闘って」しまうような、そういう小児的熱血挺身傾向の人々によって引き起こされるものなのだ。
 我々ゲーマーは、戦争みたいな、洗練度の低い、質の悪いゲームにはつき合わない。せいぜい高見の見物を決め込んで、嘲笑するだけだ。
(『パソコンゲーマーは眠らない小田嶋隆
 アメリカソ連と異なるのは、マルクスのように生きていた人間からイデオロギーを与えられたのではなく、神から使命を与えられたという点だ。神がアメリカ国民に与え給うた指名を、実行するために建国したのだ。
 かつてフランクリン・ルーズベルト大統領は、「政治では、偶然に起こることなど一つもない。何かが起これば、それは間違いなくそうなるように、あらかじめ計算されていたからなのだ」と言った。たびたび引用される有名な一節である。
 アメリカは神が与えた使命、つまり自由と民主主義を、世界に広めていく。神に与えられた目的に従って、計画的にさまざまなことをやってきたというわけだ。
(『菅沼レポート・増補版 守るべき日本の国益菅沼光弘
 人間みたいなちっぽけな存在にとっては、世界の終りもそれほど大げさなものではなく、こんなふうに平凡な嵐で始まるのかもしれない。(『その女アレックス』ピエルール・ルメートル:橘明美訳)
 ところで第4期(※紀元600-1200年/ヒンドゥイズム興隆の時代)に入ると、インドでは正統派バラモン系の思想・宗教のみならず、非バラモン系の思想・宗教にも新たな運動が台頭してくる。タントリズム(密教)の台頭である。
 タントリズムとは、儀礼とシンボルの機能を重視し、「シンボルは宗教の目的としての究極的なものを指し示すことができる」という前提に立つ宗教形態である。サンスクリットの伝統的な学問をおさめたエリートたち――あるいは専門家たち――の宗教とは異なって、宗教の専門的知識のない、一般の人々も直接参加できたところにこの宗教形態の特質がある。またタントリズムのテーマも、ヴェーダーンタ学派のそれと同じく、宇宙原理と自己(個我)との同一性の直証であった。
(『はじめてのインド哲学立川武蔵

哲学
「人間は結局、それ自体が問題を体現している存在なのです」(『ハイファに戻って/太陽の男たちガッサーン・カナファーニー黒田寿郎奴田原睦明訳)
 若くして死ぬなら死んでもいい。しかし栄光もなく、祖国に尽くすこともなく、生きた跡形を残すこともなく生きているのだったら、若くして死んではいけない。そんな生き方は酔生夢死も同然だからだ。(『ナポレオン言行録オクターブ・オブリ編:大塚幸男訳)

ナポレオン
佐藤●いま、コーヒーを飲んでますよね。いくらでしたか? 200円払いましたよね。この、コイン1枚でコーヒーが買えることに疑念を持たないことが「思想」なんです。そんなもの思想だなんて考えてもいない。当たり前だと思っていることこそ「思想」で、ふだん私たちが思想、思想と口にしているのは「対抗思想」です。護憲運動や反戦運動にしても、それらは全部「対抗思想」なんです。(『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき佐藤優魚住昭
 学ぶということは、教えられたことを踏み台にして、答えてくれる者のいない世界を問うことでなくて、何であろう。人は答えてくれない。が、天や地や水は答えてくれる。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 あえていえば、人は自分の計算におさまる人を心から尊敬しない。人は敵対者を恐れるよりも、助言者に用心しなければならぬ。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 義侠とは、利益のみえぬ虚しさにおのれを投擲(とうてき)することである。虚しさそのものに同化することである。その虚しさはつねに死に隣接しており、そこに飛びこむことは自己へのこだわりを棄てることになり、そこから脱することは新しい自己に遭遇することになる。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 孫子(荀子)という儒者は激しいところのある人で、いまの世に妥協しておのれに満足する者を、憎悪していた。孫子は、蔽(おお)われている人が嫌いなのである。世は変化する。それゆえ、世に役立つ者になるためには、自己を改革しなければならない。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 孫子(荀子)は速成をきらった。人より速く歩いてみせようとする者は、間道をえらぶうちに、けっきょく大道を見失って迷ってしまう。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 最近、よく「旬産旬消」(※その季節に採れる旬のものをその季節に消費する〈食べる〉こと)とか「地産地消」(ある地域で生産されたものをその地域で消費すること)とか言われるけど、ヨーロッパの国々は、工業製品は別にして、基本的に食糧に関しては、半径30キロ以内で全部生産し消費するという考えを持っているようだ。一つの都市とその周辺の田園地帯が一体ということだ。だから、どんなに安くても、シナ(中国)でつくったものは持ち込まないというのが、ヨーロッパ人の見識。どこでどんなふうにつくったかよく分からないような冷凍食品は輸入しない、食べない。地元のしか食べないというのはコスト高だけれど、そのコスト高をあえてやることが文化だ、というのが彼らの発想なんだね。こういう見識、発想は日本人も見習うべきだ。
 これは教育の問題だと思う。日本人は日本でつくったものを食べる。これが日本の文化なんだ、と教育することが大事だね。
(『ドンと来い!大恐慌藤井厳喜
 このような状況では、逃げ道は一つしかない。すべてを他の者のせいにすることである。ファシズム全体主義によって解決し、克服し、調和させることのできない矛盾は、外部の脅威たる敵のせいである。目に見えない魔物との戦いは、目に見える特定の人間や勢力との闘いに代えられなければならない。(『ドラッカー名著集9 「経済人」の終わりP・F・ドラッカー上田惇生訳)
 資本主義社会のあとが、今日の転換期としてのポスト資本主義社会である。資本主義のあとの社会というだけのことで、特質がいまだ定まっていない社会である。このポスト資本主義社会のあとに来るものが、おそらく知識社会である。その頃には、お金中心の社会があったことなど誰も信じないだろう。(『ドラッカー入門 万人のための帝王学を求めて上田惇生
 自力で新聞を読みこなせない層のためのテレビ版新聞ダイジェストをニュースショーと呼ぶのだとするなら、ワイドショーは、ニュース解説に読後感まで付け加えた一種の完パケ商品だ。「どう考えるか」のみならず「どう感じるか」までをすべて丸投げにした完全なおまかせニュース商品。
 たとえば「アッコにおまかせ!」では、文字通り和田アキ子という一人の代理オヤジに世界の解釈が丸ごと委ねられている。で、日曜日のオヤジの無気力につけ込む形でアッコ節が炸裂する。末世だ。
(『テレビ標本箱小田嶋隆

テレビ
 なかには、新聞もインターネットも見ない、ニュースはテレビだけという人もいるでしょう。しかしテレビのニュースは、ほとんど信頼性がないと思ったほうがよい。ニュースの中身、分析、意味づけという点で、非常に確実性が低い。インターネットの信頼できるサイトでもいいし、新聞でもいいし、メールマガジンでもいい。何でもいいから、テレビ以外からニュースを集めるようにしてください。(『日本人が知らない世界と日本の見方 本当の国際政治学とは中西輝政
 現状、若手芸人が求められている役回りは、イジメ被害者の「モガキ」だ。で、その七転八倒を、われわれは「笑い」として消費している。要するに、われわれの社会は、誰かが恥をかいたり、痛い目に遭ったりしている姿を大勢で眺めて笑うという、集団リンチにおける爆笑発生過程みたいなものを産業化しているわけだ。でなくても、お笑いの世界は、新人部員に裸踊りを強要する体育会系や、準構成員を家畜扱いする暴力団組織と同質のサル山構造でできあがっている。(『テレビ救急箱小田嶋隆
 鹿肉料理に使われるレシピやハーブ類、ワインや調理法さえあれば、古靴だって美食家を満足させることだろう。(『チャーリーとの旅ジョン・スタインベック:竹内真訳)
 一行は(※広島の原爆)資料館に入った。約1時間かかったというから、長い方である。(※同館の平均の見学時間は30~40分)
 チェは、館内のさまざまな原爆による被害の陳列品を見るうちに、見口氏(※広島県の外事担当)に英語でいった。
「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか」
(『チェ・ゲバラ伝三好徹

ゲバラ
 講談は読むという。
 義太夫は語るという。
 落語は話すという。
 長唄は唄うという。
 この差を楽しむだけでも日本の芸能は面白い。
(『タレントその世界永六輔
 子どもたちのなかには養女がいます。メムナちゃんといいます。妻エリザベスさんの姉の娘です。
 3歳になるメムナちゃんですが、彼女もまた、反政府軍によって右手を切り落とされていました。
(『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白後藤健二

少年兵
 一貫して勝つ人間には、他人とは違った思考力があるのだ。(『ゾーン 相場心理学入門』マーク・ダグラス:世良敬明訳)
 島に隔離されると、サイズの大きい動物は小さくなり、サイズの小さい動物は大きくなる。これが生物学で「島の規則」と呼ばれているものだ。(『ゾウの時間 ネズミの時間 サイズの生物学本川達雄
 東京・地下鉄大手町駅から歩いて1分、ビジネス街の一角に平将門の首塚が祀られています。そばにある三井物産の役員室は、全部そこにお尻を向けないように設計されています。つまりエリートビジネスマンが平将門の霊力を信じて畏れているということです。これは1000年単位で続いている迷信ですから、相当に強く洗脳が維持されていると言えます。(『スピリチュアリズム苫米地英人
「だが、ぼくにとっては他人のことは自分のことなんだ」(『スカラムーシュラファエル・サバチニ:大久保康雄訳)
 人は人によってしかるべき位置にさだめられる。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 ――この世には、目にみえぬ位階がある。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
「人は、生きていることを、他人とはちがう表現において証拠立てよ」(『奇貨居くべし宮城谷昌光
「人の徳は弱者をいたわるところから発する」(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 儒教がなぜ、楽、を尊重するのか。わかる者は稀有(けう)といってよい。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 人の声は、その人を生かしている魂魄(こんぱく)が立てる音である。汚れた魂魄は、汚れた音を立てる。(『奇貨居くべし宮城谷昌光