これに勢いをました身延山久遠寺は、寛永9~10年の全国寺院の本末帳提出の折には、日蓮宗すべての派の総括を行なうようとの命令を幕府から得た。一方、不受不施派の頭目と目された妙覚寺に対しては、きびしい探索を行なうとともに、寛永10年の段階でもまだ不受不施の思想を持っているかどうかを本末帳の中に1カ寺ごとに書き入れさせた。
それからさらに、身延山久遠寺は幕府権力を背景にしつつ不受不施派の弾圧にのり出していった。その手口は、幕府の法要のたびごとに不受不施派の不参加を口実に上訴するということであった。また久遠寺は寛文7年(1667)に江戸ならびに武蔵国などその周辺の不受不施派寺院を調査し、幕府にその弾圧をしばしば要請している。その結果、幕府は不受不施派に対して改派をせまることになった。しかし江戸だけでも242カ寺という不受不施派寺院の勢力は依然根強く、多くの人々の信仰をあつめており、簡単にはいかないようであったが、寛文9年(1669)4月には、日蓮宗不受不施派寺院が寺請をすることを禁じている。さらに元禄4年(1691)不受不施派とともに悲田宗をも禁止している。このようにして完全に不受不施派は禁制されることになり、その後公的な形での布教活動は困難になった。
(『庶民信仰の幻想』圭室文雄、宮田登)
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