私は黙った。黙ったと同時に井上(ひさし)さんの平手が頬を打った。
 それからはまるで狂った狸に襲われるように、あちらからこちらから滅茶苦茶に手が飛んできた。イスにぶつかりベッドに押し付けられ、机の下で首を締められる。とっさに頭をかばった。
 ここで殺されるにしても顔と頭だけは最後まで正気でいたかった。逃げれば追って来る。声など出ようがない。
 戻ってきたマスさん(井上の実母)はその修羅場に遭遇した。
「あ、やめなさい、ひさし君! こんな女に手を上げてはあなたがもったいない」
(『表裏井上ひさし協奏曲西舘好子〈にしだて・よしこ〉)