その一方で、欧米諸国からの皇室国際化の要請を予測していた皇室は、開国に備えて政治・外交・社会体制まで包含した大規模な国家戦略群をあらかじめ建てていた。それが「堀川(ほりかわ)政略」で、発端は天保(てんぽう)の大飢饉の前後の1830年代と推察される。室町時代依頼、永世親王として代々皇室のウラを支え國體(こくたい)を護ってきた伏見殿の19代貞敬(さだよし)親王と第一皇子・邦家(くにいえ)親王が中心となり、國體参謀衆に命じてこれを建てたというのだ。
建武(けんむ)の新政にあたり南北朝(落合史観では海洋民族系を南朝、大陸騎馬民族系を北朝と呼ぶ)の合一を図るために建てられた極秘の「大塔(おおとう)政略」に基づき、南朝の大塔護良(もりなが)親王の息子・益仁(ますひと)親王(のち興仁〈おきひと〉親王)が北朝光厳(こうごん)上皇の第一皇子に入り崇光(すこう)天皇となったことで南北朝は実質的に統合された。崇光天皇の皇子・栄仁(よしひと)親王が初代となって始めた伏見殿が、代々大塔宮の血統を伝えることで、「万世一系の皇統」の血統バンクとなったのである。伏見殿が國體天皇となり、伏見殿から出た後花園(ごはなぞの)天皇の末裔が皇室となって代々政体天皇に就いてきたが、「堀川政略」により、皇室の国際化のため、伏見殿が海外事項に専任し、政体天皇が國體天皇になったという。その空いた政体天皇の役職を埋めるため、政体天皇には皇室外から後花園皇統以外の大塔宮の子孫を抜擢することを定めたのだ。
(『逆説の明治維新』落合莞爾監修)