(孝明)天皇崩御の原因については諸説ある。毒殺説はイギリス側の記録にもあり、会津側の口碑(こうひ)にも伝わり、演出者は岩倉具視(いわくらともみ)、茶として毒をすすめたのは女官名古屋局(ふるやのつぼね/長州藩士の娘)で、行方(ゆくえ)知れずになったという。
作家南条範夫氏の説について――氏の祖父はオランダ医学を学んだ外科医で、京都に住み、御殿医(ごてんい/天皇の治療に携わる医師)でもあったという。その祖父のもとに夜半御所からお使いが来て、すぐ参上してみると、天皇が血に染まって奥の間に寝かされている。検診申し上げると、股から脇腹へかけて上に向かって槍が突きささった跡がある。御病気ではあったが、亡くなられたのは、その槍のための出血多量の故(ゆえ)であった。
夜半お手洗に行かれ、厠(かわや)の側に大きな水盤(すいばん)があり、侍女(じじょ)が助けて雨戸を開け、天皇がお手をお出しになる。女官が水をおかけする。その時に縁の下から曲者(くせもの)が短槍を突き上げたという。
(『幕末最大の激戦 会津戦争のすべて』会津史談会編)
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