よく道具というと手足の延長であると言われますが、実を言えば手足もまた道具なのです。その人の生理あるいは心理というものにぴったり密着して機能的に動いている道具なのです。道具というものは決して単なる物質、物ではない。すなわち物ではあっても、必ず主体である私たちの精神とか心とかいうものの癖を受けているものなのです。いかなる物も必ず私たちの心がそこにしのび込んでいる。万年筆の例でもおわかりのように、物というのものは必ずそれを使う人の手癖になじんでいる。あらゆる物がその人の生き方を内に含んでいるのです。だから物といって軽蔑するのは間違いなので、道具にしろ物にしろ、それはすべて心を離れては存在しない。心そのものである。あるいは心と物とが、物質と精神とが出会う場所である。道具というものはこのように考えるべきだと思います。
そういう前提で考えて見れば、言語道具説というのは決して悪いことではない。
(『人間の生き方、ものの考え方 学生たちへの特別講義』福田恆存〈ふくだ・つねあり〉、国民文化研究会編)