頭をおすとぶよぶよのゴムまりのような感触がする。
 顔は、顔はどこにいってしまったのだろう。まぶたが腫れて眼があかない。頭はガンガン、耳は鳴りやまない遠くの耳鳴りを聞いている。
 はうようにマンションをおりてきたところに運よくタクシーが通った。車は飛び出した身体の前で急停車し、あけた窓から「コノー!」と運転手の怒鳴る声が聞こえた。
 異変を感じたのか運転手が「どうしたのです」と降りてきた。身体を真っすぐ立てるつもりが、前にも後にも動かない。
「コレ、血ですよ、奥さん」
 耳と鼻からの血がまだふききれていない。
「いいんです、夫婦喧嘩ですから」
「しかし……ねぇ、そはいっても」
 運転手はあきらかにたじろいでいた。
(『修羅の棲む家 作家は直木賞を受賞してからさらに酷く妻を殴りだした西舘好子〈にしだて・よしこ〉)

井上ひさし