電話は、元来、非常にプライベートなものだ。というよりも、我々のような狭っ苦しい土地に群れ集まって暮らしている人間たちにとっては、プライバシーと呼べるようなものは、せいぜいが寝室と便所と電話のまわりの少しばかりの空間の中にしか存在していないのだ。
だから、我々は、「他人の電話に聞き耳を立ててはならない」という暗黙の了解事項を、必死になって守っている。ベッドサイドに置いてある電話であれ、オフィスの机の上の電話であれ、我々は、誰かが電話に向かって話をしている時には、その人間のことをなるべく無視しようと努めるのだ。
たとえば、妹が階段の下にある電話で長電話をしている時、私は、なるべく階段に近付かないようにする。どうしても階段を通らなければならなくなったら、「もうすぐそっちを通るぞ」という感じの足音を立てながら、駆け抜けるようにして階段を降り切る。
もちろん、私とて、妹がどんな男とどんな話をしているのかについて、興味がないわけではない。が、私は、市民社会に生きる人間として、その興味を押し殺す。
「ここで盗み聞きなんかをしたら、オレは最低のクズ野郎になってしまう」
と、そう思って、私は一目散に階段を駆け下りてトイレに駆け込むのだ。
ともかく、そうやって、我々は、「電話のプライバシー」を守るべく、日夜努力している。だからこそ、我々は、面と向かってはとても言えない恥ずかしいセリフを、受話器に向かってならば、なんとか吐くことができるのであり、そうであるからこそ、恋は生まれ、人々は生きているのである。
ところが、携帯電話は、その我々の電話プライバシー死守の努力を、いともあっさりと踏みにじる。病院の待合室、駅のプラットホーム、公園のベンチ……そういう、こっちがわざわざ聞き耳を立てるまでもなく、すべての会話が丸聞こえに聞こえてしまう公共の空間に、携帯電話は、唐突に、ぶらりと、土足のままで入り込んでくる。そして、その携帯電話の持ち主は、臆面もなくプライベート通話を始め、周囲の人間たちのパブリックなモラリティーに泥を塗るのである。
(『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆)