世の人々に「マラーノ=豚」とさげすまれながら、いつ「おまえはユダヤ教徒だ」と密告者に告発されるかもしれない状況の中で、彼らマラーノは、表面的にはカトリックに同調しながら、心の奥底ではそれに背いて、禁じられたユダヤ教を密かに信ずるという二重性を我が身に課するほかなかった。それは、あらゆる権威あるものから、市民的・日常的なものから、そしてついには自己自身の最も内的な本質からさえも疎外されるという恐るべき経験であった。とすれば、自己の内部でのこうした「追放」とは、現世的な人生からの流謫、人生の本道から外れて自己疎外という精神の曠野(こうや)を彷徨い歩く人間のむきだしの姿を表す言葉ではないだろうか。(『離散するユダヤ人 イスラエルへの旅から小岸昭

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