歴史学では、その本人またはその同時代人の資料がいちばん大事です。けれども、この絵の場合、その主題についてのどんな資料も残っていないのです。契約書もないし、ミケランジェロも口をつぐんでいます。キリスト教会は、この頃、ルターが出現する直前で、危険なことや、異端や、宗教裁判や、さまざまな流派が渦巻いていて、予断を許さない状況でした。
彼が生きていた1475年から1564年という時代は、おそら西欧最大の危機のひとつでした。彼は一生涯システィーナ礼拝堂に何を描(えが)いていたかいいませんでした。(中略)
1498年にサヴォナローラが火あぶりにされ、1600年にはジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられ、1632年にはガリレオが裁判にかけられています。この有名な絵のほんとうの意味がわからなくなったのは、それが隠されたからです。これが書物だったら、だれにも意味がわかってしまうから、『薔薇の名前』のなかでボルヘがアリストテレスの本を隠したように、書庫のおくに隠すか、実際にたくさんの本がそうであったように焼かれてしまったでしょう。けれども幾重(いくえ)にも複雑な意味をもった、曖昧(あいまい)な芸術作品は、解読するキーをもっていない人にはただの美しい画面にすぎませんから、生き残ったのです。
(『イメージを読む 美術史入門』若桑みどり)