普通は、喉の渇きをいやすには、夕方のスープと、朝の10時ごろに配給される代用コーヒーで十分だった。しかしそれではもはや十分でなかった。渇きは私たちを責めさいなんだ。それは飢えよりもずっと切実だった。飢えは神経の言うことに従い、小康状態になり、苦痛、恐怖といった感情で一時的に覆い隠すことができた(私たちはイタリアから汽車で運ばれて来た時、このことに気がついた)。渇きはそうではなくて、戦いを決して止めなかった。飢えは気力を奪ったが、渇きは神経をかき乱した。そのころは昼も夜も、渇きがつきまとって来た。(『溺れるものと救われるもの』プリーモ・レーヴィ:竹山博英訳)
ナチス/強制収容所