マダム・ガイヤールはまだ30にもなっていないのに、もうとっくに人生を卒業していた。外見は齢相応にみえた。と同時にその倍にも見えたし3倍にも見えた。100倍も歳月を経たミイラ同然だった。心はとっくに死んでいた。幼いころ、父親に火掻き棒で一撃をくらった。鼻のつけ根のすぐ上。それ以来、嗅覚がない。人間的なあたたかさや冷たさ、そもそも情熱といったもの一切に関心がない。嫌悪の感情がない代わりにやさしさもない。そんなものは、あの火掻き棒の一撃とともにふきとんだ。絶望を知らない代わりに喜びも知らない。齢ごろになって男と寝たとき、何も感じなかった。子どもが生まれたときもそうだった。生まれた子が次々と死んでいっても悲しいとは思わなかった。生き残ったのがいても、うれしいというのではない。夫に殴られているとき、からだをすくめたりしなかった。その夫がコレラのために収容所で死んだとき、ホッとしたりもしなかった。彼女が感じる唯一のものは月経のはじまり。ほんの少しだが気分がめいる。月経が終わると少しばかり気が晴れる。ほかにこの女は何一つ感じない。(『
香水 ある人殺しの物語』
パトリック・ジュースキント:
池内紀訳)