精神とは同一のものをきらうものであります。列車に乗って外の景色をながめております場合、いつまでもいつまでも同じような荒野が広がっている場合には、精神はたいくつします。また、一つの論文がただ長いだけで、内容的には同じことがくり返されてくる場合には、精神はそのような論文を読み続けることを拒否するのであります。それはことばを換えて申しますと、精神は単調、モノトニー、ということをきらうものであるということであります。あるいは精神は反復をきらうと言ってよいかもわかりません。精神は常に変化を求めるものであります。たとえば、一つのオーケストラを聞く場合、同じメロディーや、同じリズムがくり返されることにはたえられず、新しい旋律のあらわれるのを常に期待するものであります。
要するに、精神というものは、すでにあるもの、すでにつくられたもの、すでに自分の所有するものには満足しないのであります。精神は常に変化を求めるもの、常に新たなるものにあこがれるものであります。しかも単に新しいもの、変わったものを求めるだけではなく、〈より〉よいものを求めるものであります。〈より〉よいもの、〈より〉美しいもの、〈より〉正しいものを求めるもの、それが人間の精神であります。
なお、精神は新しいものを求めますとともに、調和を求めるものであります。変化を求めると申しましても、ただ雑然と多くのものがあるということを精神は喜びません。ましてものごとが対立し、矛盾したままで存在することには満足しません。満足しないだけではなく、そのような対立や闘争にはしんぼうができず、すべてのものに平和と調和を求めるものであります。このようにして精神とは、同一なるもの、無変化なるもの、不調和なるものに満足しないだけではなく、さらにみずから進んでその新しいもの、〈より〉よいもの、〈より〉調和あるものをみずからつくるものであります。精神によって、新たなるもの、〈より〉よいものは生み出されるのであります。精神こそ創造の原理であり、時間と歴史の源泉なのであります。
(『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬〈おもだか・ひさゆき〉)