この日のわたしはただ無心で、ひたすら前だけを見て走ると決めていたのだが、そんなに簡単にすむことではなかった。走りながら、沿道の人々の中に、知っている顔はないか、一緒にこのあたりで悩みを語り合った人はいないか、と探していた。しかし、誰もいなかった。彼女たちだってもう40歳前後だ。家事や仕事に追われているかもしれない。とうにこの街を去って、どこかで日々の暮らしを営んでいるだろう。そんなことを考えながら、彼女たちのひとりひとりに謝罪していた。
はからずも24時間マラソンは、懺悔(ざんげ)と謝罪のマラソンになったのである。しかし、それは走ってみて初めてわかったことであり、走る前は、何度もいうように無心で走ることしか念頭になかった。
(『杉田』杉田かおる)
創価学会