「お金がなくてもいいと考えるのは、お金にとらわれているのと同じくらい異常なことだ」(『金持ち父さん貧乏父さん アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学ロバート・キヨサキ、シャロン・レクター:白根美保子訳)

マネー
 これは、友情、連帯の物語でもある。無意識の奥深くを覗き込むと、自分と他人を隔てる境界線は実は曖昧なものであるとわかる。私たちが自ら判断や決断を下したと思っていても、そこには必ず周囲の人たちからの影響があり、また、自分の判断や決断はまた(ママ)周囲に周囲に影響を及ぼすのだ。私たちは他人がいてはじめて自分になれる。互いが互いを人間にしていると言ってもいい。(『人生の科学 「無意識」があなたの一生を決める』デイヴィッド・ブルックス:夏目大訳)
茂木●「フロイトは夢、無意識の働き、リビドーを発見した」という公式の話だけでは、その生き方の凄まじさが伝わってこないじゃないですか。人間の生の振れ幅は、「世間で流通しやすく整えられたもの」には、入っていない。「涙で世界のある種の側面に気づくこと」は、「振れ幅の大きさに気がつくこと」でもある。生命の幅の大きさというか、生命原理そのものに触れて感動するというか。泣くことで、ようやくのこと生きていると感じるのはそのせいかな。(『涙の理由 人はなぜ涙を流すのか重松清茂木健一郎
重松●「わからないものをわからないままに受け止める素直さや謙虚さ」がなくなって、わかったふりをしたり、わからないところは陰謀史観で埋める。「わからないお前が悪い」という「わかりたい病」がある。おそらく、脳の仕組みや脳にまつわる話が増えているのも、「わかりたい」んだと思うのね。(『涙の理由 人はなぜ涙を流すのか重松清茂木健一郎
 こうしてみると、私たちの顔は、まるで肛門から肛門括約筋(かつやくきん)が飛び出るのと同じように、エラの内蔵筋が口から飛び出した一種の「脱肛」(だっこう)現象といえる。そして、表情運動の本質こそ、まさに私たちの内蔵運動、すなわち「はらわたの動き」が、文字どおり「目・鼻をつけて」飛び出し、白日(はくじつ)のもとに曝(さら)されたものにほかならない、といえる。(『唯臓論』後藤仁敏)
 固定指示子について語る時、われわれは形式的様相言語にまぎれもなく存在する一つの可能性について語っているのである。論理的には、われわれは今の所、自然言語において通常「名前(name)」と呼ばれるものの地位に関するいかなるテーゼにもコミットしていない。(『名指しと必然性 様相の形而上学と心身問題』ソール・クリプキ:八木沢敬、野家啓一訳)

形而上学
「なんだってSFはわしに風邪をひかせることにしたんだ。理解できん」(SFは至上〈スプリーム〉のファシスト、天上にいるナンバーワンのやつ――エルデシュのメガネを隠したり、ハンガリーのパスポートを盗んだり、もっと悪いことに、ありとあらゆる興味深い数学の問題の明解な証明をひとり占めしていて、エルデシュをいつも苦しめる神のことだ)。
「SFは、わしらが苦しむのを見て楽しむために、わしらを創りたもうた。早世すれば、それだけ早くかれの計画を阻むことになる」とエルデシュは言ったものだった。(『放浪の天才数学者エルデシュポール・ホフマン:平石律子訳)

ポール・エルデシュ数学キリスト教
 危険はあります。子供たちの安全が脅かされ、私は子供たちと離れて暮らさなければなりませんでした。私自身、すでにマフィアに命を狙われています。危険なのはわかっています。それでも、後戻りすることはできません。希望はすぐそこにあるのですから。(『それでも私は腐敗と闘う』イングリッド・ベタンクール:永田千奈訳)
 共感覚者はある感覚と別の感覚を置きかえたり、混同したりしているのではないという点は、重要なので強調しておきたい。つまり、耳で何かが見えるというとき、彼らは音を光景と【とりちがえているのではない】。そうではなく、両方の感覚を同時に知覚するのである。(『脳のなかの万華鏡 「共感覚」のめくるめく世界リチャード・E・サイトウィックデイヴィッド・イーグルマン:山下篤子訳)
 ご想像のとおり、電磁エネルギー源は日に日に進化している。その出力において、パルス、波形、焦点の調整ができ、人体に照射すれば、こんなことが可能になっている。自発的な筋肉運動を阻止し、感情と行動を操作し、眠らせ、指示を送り、短期および長期の記憶を阻害し、一連の経験を作ったり消したりする。(アメリカ空軍科学諮問委員会『新世界展望:21世紀に向けた航空宇宙戦力』)『電子洗脳 あなたの脳も攻撃されている』ニック・ベギーチ:内田智穂子訳

洗脳
 大寺では、紀元前後から三蔵に対する註釈が作成されるなど、思想活動が続けられていたと考えられるが、5世紀初頭にブッダゴーサという学僧が登場し、これらの古資料を踏まえて、上座部大寺派の教学を体系化した。現存資料を見る限り、「上座部」や「大寺」の伝統を掲げて作品を著し、思想を体系化したのは、ブッダゴーサが初めてであって、彼以前に遡ることはできない。(『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ馬場紀寿

仏教
 プライドを与えてやれ。そうすれば、人びとはパンと水だけで生き、自分たちの搾取者をたたえ、彼らのために死をも厭わないだろう。自己放棄とは一種の物々交換である。われわれは、人間の尊厳の感覚、判断力、道徳的・審美的感覚を、プライドと引き換えに放棄する。自由であることにプライドを感じれば、われわれは自由のために命を投げ出すだろう。指導者との一体化にプライドを見出だせば、ナポレオンヒトラースターリンのような指導者に平身低頭し、彼のために死ぬ覚悟を決めるだろう。もし苦しみに栄誉があるならば、われわれは、隠された財宝を探すように殉教への道を探求するだろう。(『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集エリック・ホッファー:中本義彦訳)
 われわれは、しなければならないことをしないとき、最も忙しい。真に欲しているものを手に入れられないとき、最も貪欲である。到達できないとき、最も急ぐ。取り返しがつかない悪事をしたとき、最も独善的である。
 明らかに、過剰さと獲得不可能性の間には関連がある。
(『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集エリック・ホッファー:中本義彦訳)
 われわれが何かを情熱的に追求するということは、必ずしもそれを本当に欲していることや、それに対する特別の適性があることを意味しない。多くの場合、われわれが最も情熱的に追求するのは、本当に欲しているが手に入れられないものの代用品にすぎない。だから、待ちに待った熱望の実現は、多くの場合、われわれにつきまとう不安を解消しえないと予言してもさしつかえない。
 いかなる情熱的な追求においても、重要なのは追求の対象ではなく、追求という行為それ自体なのである。
(『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集エリック・ホッファー:中本義彦訳)
 現代においては、例えば偉大な発見であるとか、偉大な事業というような大きな事がおこなわれることがある。しかしこれは、われわれの時代に偉大さを加えることにはならない。偉大というものは、特にその出発点や、その動機や、その意図のうちに存在するのだ。89年〔1789年、フランス革命の始まった年〕には、人は祖国のため、人類のためにすべてのことをやった。帝政時代〔ナポレオンの第一帝政〕には、光栄のためにすべてのことをやった。つまりその点にこそ、偉大の源があったのだ。現代では、結果が偉大に見える時でさえも、それは利害の観点から創られただけのものである。そしてそれは投機に結びついている。そこに現代の特質がある。(『月曜閑談サント・ブーヴ:土居寛之訳)
 どうやら極限状況で命と向き合った人びとに起こる共通の体験があるらしく、おかしな言い方かもしれないが、それまで耐えてきた艱難辛苦を思えば、その体験はおそらくすばらしいことなのだ。人間の忍耐力の限界に達した人たちが成功したり生還したりした背景には見えない存在の力があったという、突飛とも思えるこの考えは、極限的な状況から生還した多数の人びとの驚くべき証言にもとづいている。彼らは口をそろえて、重大な局面で正体不明の味方があらわれ、きわめて緊迫した状況を克服する力を与えてくれたと話す。この現象には名前がある。「サードマン現象」というものだ。(『サードマン 奇跡の生還へ導く人』ジョン・ガイガー:伊豆原弓訳)
 民族主義とは、次のような考え方である。

(1)人類というのは民族という単位に分類できる
(2)それぞれの民族が独自の国家を持つべきである。これを【民族自決の法則】と呼ぶ
(3)故人は、属する【民族の発展のために貢献】すべきである

 こうした考えによれば、個人の最高の生き方は、自らの【民族の国家】のために尽くすことであり、自らの民族が国家を持っていない場合は、その建設のために働くことである。

(『なるほどそうだったのか!! パレスチナとイスラエル』高橋和夫)

パレスチナイスラエル
 迷いは、布の縦糸(たていと)、緯糸(よこいと)がほつれて片寄ること、とも言われます。混乱、混迷です。織る人の心に調和がなければ、織り成す糸が乱れることは必定でありましょう。立派な布も、簡素な衣も望めません。着る人の心もまた同じです。もし内に貪(むさぼ)りや怒りや愚癡(ぐち)といった煩悩や欲の偏りがあるなら、綾(あや)が失われるように、その言葉も行動も粗(あら)くならざるを得ません。(『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ 『大念処経』を読む片山一良

仏教
 社会学は使うものだ。「見る」「知る」「考える」では言い表せない、独特な手触りがそこにはある。(『社会学の方法 その歴史と構造』佐藤俊樹)
 魂が植民地化されていると人は、自分自身の地平ではなく、他人の地平を生きるようになります。自分自身の感じる幸福ではなく、他人が「幸福」だと考えることを追求するようになるのです。(『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語安冨歩
 1812年、ロシア人の90%は農奴であった。地主階級の全くの所有物として売り買いされていた。気まぐれで売買されることもあり、かつての西欧の小作人よりむしろ奴隷に近い。1789-99年に起きたフランス革命の行動指針と理想は、ナポレオンの遠征軍とともに広がっていった。中世の社会秩序を壊し、政治的境界線を変え、国家主義(ナショナリズム)の概念を醸成した。彼の遺産は、実社会にも影響を及ぼし、一般的な国民主権と法体系が、地域的な決まりやしきたりという多様で不明確な習慣に取って代わった。そして故人、家族、財産権といった新しい概念が導入された。また、地域によってバラバラだった度量衡も統一された。(『スパイス、爆薬、医薬品 世界史を変えた17の化学物質』ペニー・ルクーター、ジェイ・バーレサン:小林力訳)
 彼(※ラス・カサス)は『すべての人々を真の教えに導く唯一の方法について』(1526年ころ執筆を開始し、40年以降に完成。以下、『布教論』と略記)の中で一般論として、「個々の人間の間に、知性や理性の鋭さや働きにおいて多少の差があるのは事実だが、ある民族や国民全体が、あるいは、ある地方や王国の人々すべてが愚鈍かつ無知無能で、福音の教えを受け入れる能力を完全に備えていないということはあり得ない」と主張しているのである。(『大航海時代における異文化理解と他者認識 スペイン語文書を読む染田秀藤

インディアン
 2009年7月13日の逮捕から20日後、岩川は、ひとまず勾留から解かれた。独房で、そう宣告された。全ての荷物をまとめて、そこを出た。刑務所の職員5~6人による、出所のためのセレモニーがあって、勾留を解く旨の文書が読み上げられた。玄関に向かった。50~60メートルも歩いただろうか。秋田県警の刑事が「ちょっとそこに腰掛けてください」と椅子に誘導した。逮捕状を見せられた。「二階堂に対する2回目の買収の容疑……」(『つくりごと 高齢者福祉の星岩川徹逮捕の虚構大熊一夫

検察警察
【再活性化された信仰を原理的に権威づけているのは、何ものにも服さぬ自己である】 世俗化とは宗教と信仰の没落を指す言葉ではなく、次第に個人化へと向かう宗教性の形成とその大規模な拡大を指す言葉だ。諸宗教の影響領域が互いに重なり合い、浸透し合うようになる社会の中で、このプロセスは信仰の再活性化をめざそうとする、より包括的な傾向の一部をなしている。(『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教ウルリッヒ・ベック:鈴木直訳)
 こうして、「神に服従すること=僧侶への服従」となってしまい、僧侶のみが人間を救うことができるという、バカバカしいお話ができあがるわけです。僧侶のような組織を持つ社会では、「罪」というものが必ず必要になります。彼らは「罪」を利用して力を振るうからです。(『キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』ニーチェ適菜収訳)

キリスト教
 思い出すのは、業界と結びついて厚労省が行った「介護予防事業」である。介護予防は、民間の団体が補助金を湯水のように使って、高額な機器をそろえ、要介護度の低い老人を無理やり一堂に集めて、「パワーリハ」と称する健康体操まがいの指導をした。
 リハビリの専門知識もなしに始めたこの事業は、瞬く間に馬脚を現し、見事に失敗した。施設は今閑古鳥が鳴いて、高額な装置は埃をかぶっている。リハビリ医学の常識を無視した施策は、税金を使って業者を潤わせただけの事業となった。
 理念も科学的根拠もなしに、日数だけで患者を振り分けて、とりあえず介護保険に誘導する。それに必要な高額な予算は、新規事業として認める。介護予防の二の舞になりかねない。
 設備も人員も、新設には金がかかる。そこに群がる介護業者には事欠かない。新たな利権が生まれる。
(『わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか多田富雄
 いま「真人」と訳しましたが、もとの言葉は「アルハット」です。一般には音を写して「阿羅漢」といいます。敬われるべき人、あがめられるべき人、尊敬に値する人という意味です。だからどの宗教でもいいのです。仏教では、仏陀の称号の一つとして「アルハット」といいます。それからジャイナ教でも、ジナ(祖師)がアルハットと呼ばれています。だから初期のころには、仏教もジャイナ教も同じ意味で「アルハット」といっていたのですね。
 後世になると、仏教では、ブッダとアルハットを区別するようになりました。ブッダは仏さまで、アルハットは阿羅漢、つまり小乗仏教の聖者だと使い分けるようになったのです。これは後代の発展です。ジャイナ教では、古い意味をそのまま残していて、アルハットというのはジナのことで、ジナはまたブッダとも呼ばれています。
 そういう人々をヴァッジ人は尊敬しているかどうか。宗教の区別は問題ではないのです。区別の意識さえなかったでしょう。ただ、静かにじっと瞑想したり修行をしたりしている人がいれば、その人を尊ぶということです。その人がジャイナ教徒であるか、仏教徒であるか、アージーヴィカ教徒であるか、そういう区別はあまり問題にしなかった。
 本当におのれの身を修めているかどうか。それが問題なのですね。そういう人であれば尊崇する。――のちに、これを釈尊の言葉として、あるいは初期の仏教徒の言葉として、あまねく願わしいこととして認めた。仏教という狭い領域を限って、仏教の教えに従っている人は尊崇するけれども、他の人は顧みないというのではない。宗教の区別という意識がなくて、本当の宗教的実践をしている人を尊ぶということです。
(『ブッダ入門中村元
 斎藤宅でまだ指揮のレッスンのあったころ、小澤征爾は斎藤の怒りに靴もはかずに飛び出し、そのまま裸足で家に帰った。オーケストラの雑用をひとりでかかえ、指揮の勉強もままならないころだった。翌日、母があやまりにいって、靴をとってきた。秋山も、斎藤の怒りに腰が抜けるようになって動けなくなったことがある。(『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯中丸美繪

斎藤秀雄