いま「真人」と訳しましたが、もとの言葉は「アルハット」です。一般には音を写して「阿羅漢」といいます。敬われるべき人、あがめられるべき人、尊敬に値する人という意味です。だからどの宗教でもいいのです。仏教では、仏陀の称号の一つとして「アルハット」といいます。それからジャイナ教でも、ジナ(祖師)がアルハットと呼ばれています。だから初期のころには、仏教もジャイナ教も同じ意味で「アルハット」といっていたのですね。
後世になると、仏教では、ブッダとアルハットを区別するようになりました。ブッダは仏さまで、アルハットは阿羅漢、つまり小乗仏教の聖者だと使い分けるようになったのです。これは後代の発展です。ジャイナ教では、古い意味をそのまま残していて、アルハットというのはジナのことで、ジナはまたブッダとも呼ばれています。
そういう人々をヴァッジ人は尊敬しているかどうか。宗教の区別は問題ではないのです。区別の意識さえなかったでしょう。ただ、静かにじっと瞑想したり修行をしたりしている人がいれば、その人を尊ぶということです。その人がジャイナ教徒であるか、仏教徒であるか、アージーヴィカ教徒であるか、そういう区別はあまり問題にしなかった。
本当におのれの身を修めているかどうか。それが問題なのですね。そういう人であれば尊崇する。――のちに、これを釈尊の言葉として、あるいは初期の仏教徒の言葉として、あまねく願わしいこととして認めた。仏教という狭い領域を限って、仏教の教えに従っている人は尊崇するけれども、他の人は顧みないというのではない。宗教の区別という意識がなくて、本当の宗教的実践をしている人を尊ぶということです。
(『ブッダ入門』中村元)