アジアの信仰では、謙遜、慈善、誠実に力点が置かれ、それは徳を実現するのに「障壁」となる罪をかわし、克服するために必要な道具であると教えられる。たとえばブッダは、貪欲や憎悪、惑いといったものを正しい生き方をする上での障害物であるととれ、「三つの毒」と呼んだ。
一方アブラハムの息子たちは、罪を媒介物ととらえた。もっと限定的にいえば、ヘンリー・フェアリーが言うところの「構造としての罪」はキリスト教だけの考え方で、キリスト教ほど罪を実体化し、潤色した宗教は世界ではほかに例がない。
(『強欲の宗教史』フィリス・A・ティックル:屋代通子訳)