「この幸三」
と書いて点を入れ、いっぺん筆にスミを含ませた。大きく深呼吸し、あとは息を止めて一気に書いた。
「名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」
母が縫い物するのに使う三尺の物差し、その裏側に、こう書いたんです。われながらあっぱれなカナクギ流でね。(中略)
そう、日本一の将棋指しになるために、私は家出したんです。時は昭和7年の2月、数えの15歳、満では13歳でした。手にした風呂敷包みの中には、昼のうち用意しておいた握りめしと、着がえの下着が何枚かだけ。ゼニは一銭も持っておらなかった。
(『名人に香車を引いた男 升田幸三自伝』升田幸三)