唐詩選』という本は、偽書であるにしても、李攀竜〈リ・ハンリュウ〉の詩論にそった選集のダイジェスト版である。だが彼の詩論は、今のわれわれにとっては文学史的な意義以上のものを、おそらく持ち得ないであろう。それよりもむしろ、唐詩の最も簡便な選集としての価値を重視しなければならぬ。(『唐詩選』前野直彬注解)

詩歌
体幹ウォーキング」では、“腕振りは後ろに引く”が鉄則です。(『「体幹」ウォーキング』金哲彦)
「例の忍者服を着てるのね」シモーヌはそう言うと、思わずかすかに微笑んだ。
「忍者を指す“忍”(しのび)という言葉には、ふたつの意味があるんだよ」とシュルマンは言った。
「“姿を隠す者”と“耐える者”だ」
(『催眠』ラーシュ・ケプレル:ヘレンハルメ美穂訳)
青年●私が言っているのは、何でもかんでもカネが全(すべ)てのこんな世の中では、真正のデモクラシーは育たないということです。

ソクラテス●ふむ。しかし、育つも育たないも、僕らのアテナイのデモクラシーとは民主制、つまり主義や思想ではなくて単なる制度のことだぜ。民衆の多数決が政治を決める、つまり民衆の多数がそういう思想を抱けば政治はその通りになるという制度のことだ。民衆の間でこの世はカネが全てだという思想が育てば、政治もその通りになるんだから、まことに正直な制度だよ。君の国では実によく機能していると思うがね。

(『帰ってきたソクラテス』池田晶子)
 他の感情は【出現】するのであるが、怒りは【噴出】する。(『怒りについて 他一篇セネカ:茂手木元蔵訳)
 わたしたちの目の残忍さと貪欲。記録するための仮借ない機械、レンズ、コンタクトレンズ、世界を自分の箱の中に閉じこめるために絶え間なく撮影するカメラの砲列! シャッターつきの目だ! 苦悩と快楽と恐怖をさがし求める目だ! しかしここには、河のほとりに立って動かない若い女の、見つめている目だけがある。〈見つめている目〉。(『悪魔祓い』ル・クレジオ:高山鉄男訳)

インディアン
 国家資本は、他人が働いた成果を自分のものにする二つの運動に対応している。国家と資本にそれが可能なのは、両者がそれぞれ特定の〈権利〉のうえになりたっているからだ。つまり国家は〈暴力への権利〉のうえに、資本は、生産関係へと変換される〈富への権利〉のうえに。
 ドゥルーズガタリは、人びとから労働の成果を吸いあげることを「捕獲」と呼んでいる。暴力とカネにまつわる二つの権利は、社会において捕獲がなされる二つの軸をなしているのだ。
(『カネと暴力の系譜学萱野稔人
 最も安全な日記の書き方――それはスターリンに一語一句読まれているところを想像しながら書くことだ。それでも、どれほど慎重を期しても、両義的な意味を含むフレーズがうっかりまぎれ込んでしまう危険は常にある。書いた文が誤解される危険だ。称賛が嘲弄(ちょうろう)と解されることもあれば、裏表のない追従が風刺(ふうし)と取られることもあるだろう。どれほど用心深い書き手であっても、考えうるあらゆる解釈からは身を守れない。畢竟(ひっきょう)、日記そのものを隠すことがひとつの自衛手段となる。(『エージェント6トム・ロブ・スミス:田口俊樹訳)
 いつしか彼は、ほんの少しではあるが、笑顔を見せるようになった。そんな折、彼の口からショッキングな言葉が飛び出す。
「ボク、死ぬまでここで暮らしてもいい。外は怖いから」
 世の中に対して、恐怖心を抱いているのだ。外の社会よりも、自由も尊厳もない刑務所のほうが暮らしやすいとは。日本というのは、障害者にとって、そんなにも生きづらない国だったのか。一体この国の福祉は、どうなっているのか。
(『続 獄窓記山本譲司

累犯障害者
「山本さん、俺ね、いつも考えるんだけど、俺たち障害者は、生まれながらにして罰を受けているようなもんだってね。だから、罰を受ける場所は、どこだっていいのさ。また刑務所の中で過ごしたっていいんだ」
「馬鹿なこと言うなよ。ここには、自由がないじゃないか」
「確かに、自由はない。でも、不自由もないよ。俺さ、これまでの人生の中で、刑務所が一番暮らしやすかったと思ってるんだ。誕生会やクリスマスもあるし、バレンタインデーにはチョコレートももらえる。それに、黙ってたって、山本さんみたいな人たちが面倒をみてくれるしね。着替えも手伝ってくれるし、入浴の時は、体を洗ってくれて、タオルも絞ってくれる。こんな恵まれた生活は、生まれて以来、初めてだよ。ここは、俺たち障害者、いや、障害者だけじゃなくて、恵まれない人生を送ってきた人間にとっちゃー天国そのものだよ」
(『獄窓記山本譲司

累犯障害者
 私たちの行動は、脳の配線図と、外界の刺激に対する反射作用とに完全に制御されている。意識は配線が出す熱であり、随伴的な現象にすぎない。シャドワース・ホジソン(訳注 1832-1912、イギリスの哲学者)が言うように、意識が持つ感情は、色そのものによってではなく、色のついた無数の石によってまとまりを保っている、モザイクの表面の色にすぎない。あるいは、トマス・ヘンリー・ハクスリー(訳注 1825-95、イギリスの生物学者)がある有名な論文で主張したように、「我々は意識を持つ自動人形である」。汽笛が列車の機械装置や行く先を変えられないのと同じように、意識も体の働きの仕組みや行動を変えられない。どうわめいたところで、列車の行き先はとうの昔に線路によって決められているのだ。意識とは、ハープから流れてくるが弦をつまびくことのできぬメロディ、川面から勢いよく飛び散るものの、流れを変えられぬ泡、歩行者の歩みに忠実にはついていくけれども、道筋に何ら影響を与えられぬ影だ。(『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ:柴田裕之訳)

科学と宗教統合失調症
スマナサーラ●それから、差別戒名の問題があります。被差別部落民ですとか、朝鮮人に死後つけられた戒名の差別主義というのは、それはひどかった。特におもしろいことに、曹洞宗が最も激しかったのですね。普通戒名に使われない文字を使ったり、生前の差別的な職業を表した戒名や、字数や字画の少ない戒名をつけたりして、一見してそれとわかるような戒名をつけていた。(『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチアルボムッレ・スマナサーラ南直哉

仏教
 詩人が純粋なる叡智の光によって世界を理解するの対し、余人は反射光によってこれを見るにすぎない。
     ――L・D・ギルクリスト
(『死の教訓(下)ジェフリー・ディーヴァー:越前敏弥訳)
 警察官などの子供が学習障害に悩まされる確率は、その他の職業の親を持つ場合より高い。(『死の教訓(上)ジェフリー・ディーヴァー:越前敏弥訳)
 年間企画「居場所を探して」で取り上げた高村正吉(60)=仮名=は前科11犯。知的障害がある。だが、障害があるがゆえに罪を重ねたのではない。社会から見放され、生活に困窮し、盗むしか生きるすべがなかったのだ。周囲の手助けが少しでもあれば、高村には別の人生があったのかもしれない。
 高村の生きざまを見ていると、障害者として生まれ、自力で福祉とつながることができなかった「責任」や「報い」のようなものを、高村自身だけが負わされている気がして、ひどく不条理に思えた。問題の本質は彼にあるのではなく、むしろ社会の側にあるのではないか。
 福祉と出合った高村は今も、なぜ周囲が支援してくれるのか理解できずにいる。
(『居場所を探して 累犯障害者たち』長崎新聞社「累犯障害者問題取材班」)

累犯障害者
 哲学が無害な慰みごとと考えられている時代に生きるわれわれは幸せである。しかし1676年の秋が近づくころ、バルフ・デ・スピノザには、わが身の危険を心配する十分な理由があった。一人の友人が最近処刑されていたし、もう一人の友人は獄死していた。主著『エチカ』を出版しようとするかれの努力は、それを犯罪として訴追しようとする脅迫のなかで頓挫していた。あるフランスの指導的な神学者はかれを「今世紀でもっとも不敬虔でもっとも危険な男」と呼び、権力をもつある司教はかれを「鎖につないで鞭打たれるに値する気のふれた男」と非難した。公衆にはかれは、たんに「無神論者のユダヤ人」として知られていた。(『宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神』マシュー・スチュアート:桜井直文、朝倉友海訳)

科学異端
 発見は、疑問に答えを与えてくれることもある。しかし非常に深い発見は、疑問にまったく新しい光を投げかけ、それまでの謎は知識不足のせいで生じた思い違いだったことを教えてくれる。(『宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体ブライアン・グリーン:青木薫訳)

宇宙時間
 ゴルギアスは、間主観性錯覚だということに気づいただけではなかった。彼は、他者の心が実際には知ることができず、感覚を通して推測することができるだけなのだから、それらは存在していないのかもしれないという結論に達した。結局のところ、実際には、ほかの人間の心を見ることも、それに触れることも、その重さをはかることもできない。私たちが実際に観察できるのは、動く体、話す口、歪む顔だけである。このような理由から、ゴルギアスはいまも、多くの学者から、世界で最初の唯我論者――哲学的理由から、ほかの心の存在そのものを否定する者――とみなされている。(『ヒトはなぜ神を信じるのか 信仰する本能』ジェシー・ベリング:鈴木光太郎訳)

科学と宗教
 オフショアは、富と権力を持つエリートたちが、コストを負担せずに社会から便益を得る手助けをする事業なのだ。
 具体的なイメージを描くとすれば、こういうことになる。あなたが地元のスーパーマーケットでレジに並んでいると、身なりのいい人たちが赤いベルベットのロープの向こうにある「優先」レジをすいすい通り抜けていく。あなたの勘定書きには、彼らの買い物に補助金を出すための多額の「追加料金」も乗せられている。「申し訳ありません」とスーパーマーケットの店長は言う。「でも、われわれは他に方法がないのです。あなたが彼らの勘定を半分負担してくださらなければ、彼らはよそで買い物をするでしょう。早く払ってください」
(『タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』ニコラス・シャクソン:藤井清美訳)

マネータックスヘイブン
 真に偉大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否(いな)かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。(『シーシュポスの神話』カミュ:清水徹訳)
 世紀半ばには、他の強国が台頭する。今は強大な国と見なされていないが、今後数十年間でますます力を蓄え、自己主張を強めると思われる国々だ。中でも3国が傑出する。第一が、日本である。日本は現在世界第2の経済大国だが、資源に乏しく輸入依存度がきわめて高いという点で最も脆弱な国でもある。軍国主義の歴史を背負う日本が、平和主義的な二流大国のままでいるはずがない。そのままではいられないのだ。深刻な人口問題を抱えながら、大規模な移民受け入れに難色を示す日本は、他国の新しい労働力に活路を見出さざるを得なくなる。日本の脆弱性については以前も触れたことがあるが、これまでのところ日本はわたしが予想したよりうまく対処しているようだ。しかしいずれ政策転換を迫られるだろう。(『100年予測 世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図』ジョージ・フリードマン:櫻井祐子訳)
 問題なのは、窓ガラスが割られた状態で放置された車の例でも、その地域全体のち庵が悪化したわけではなく、秩序の乱れや逸脱は、車の周囲に限定されているということである。
 つまり、割れ窓を取り除く効果は、秩序の乱れの及ぶ範囲や逸脱の範囲に一定の限界を持っているということであり、たばこのポイ捨てや落書き、小さな違反行為などをターゲットにした場合には、「割れ窓理論」は、その行為に限って効果がある可能性があるが、その効果に限界があるということである。
(『2円で刑務所、5億で執行猶予』浜井浩一)
 しかも、ただ単に翻訳家にとどまらず、彼自身がすぐれた霊的能力の持ち主であり、実践をなによりも重視する密教の導入に欠かせない逸材といってよかった。
 そのドルジェタクには、しかし、闇の部分があった。彼は自分に敵対する者を、仏教における智恵の神、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の化身(けしん)にして冥界の王たるヴァジュラバイラヴァ(ヤマーンタカ)を主導とする密教修法によって、つぎつぎに葬り去っていったのである。彼が用いた秘儀を「度脱」(ドル)という。度脱は、ある特定の人物を、それ以上の悪事を重ねる前にヴァジュラバイラヴァの秘法を駆使して呪殺し、ヴァジュラバイラヴァの本体とされる文殊菩薩が主宰する浄土(じょうど)へ送り届けるというものである。ドルジェタクは、おのれの行為を慈悲の実践にほかならないと主張した。(『性と呪殺の密教 怪僧ドルジェタクの闇と光』正木晃)
 軍人たちは怒って彼のギターを取り上げた。
 彼は今度は手拍子で歌い続けた。怒り狂った軍人は、銃の台尻で彼の両腕を砕いた。彼はそれでも立ち上がって、歌おうとした。すると軍人は彼を撃った。まるで生き返るのを恐れるかのように、数十発の銃弾が彼の身体に撃ち込まれた。
 そのとき軍人は言ったという……「歌ってみろ、それでも歌えるものならな」
(『禁じられた歌 ビクトル・ハラはなぜ死んだか』八木啓代)

ショック・ドクトリン
 大規模なショックあるいは危機をいかに利用すべきか、フリードマンが最初にそれを学んだのは、彼がチリの独裁者であるアウグスト・ピノチェト陸軍総司令官〔本来の発音は「ピノチェー」だが、1973年の軍事クーデター以来、日本では多くの場合「ピノチェト」と表記されてきたため、本訳ではそれに準ずる〕の経済顧問を務めた1970年代半ばのことだった。ピノチェトによる暴力的な軍事クーデターの直後、チリ国民はショック状態に投げ込まれ、国内も超インフレーションに見舞われて大混乱をきたした。フリードマンはピノチェトに対し、減税、自由貿易、民営化、福祉・医療・教育などの社会支出の削減、規制緩和、といった経済政策の転換を矢継ぎ早に強行するようアドバイスした。(『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴くナオミ・クライン:幾島幸子、村上由見子訳)

ショック・ドクトリンビクトル・ハラ
 IMFの構造調整政策――国家を現在の危機に対応させると同時に、もっと永続的な不均衡にも対応させる調整政策――は、多くの国で飢餓と暴動を生みだした。(『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』ジョセフ・E・スティグリッツ:鈴木主税訳)

ショック・ドクトリン
 銀行の活動、つまりクレジットによって支配された社会は、時間と待機を利用しながら、未来を手球にとる。それは、あたかもすべての活動が、社会の成りゆきに先だって計算され、見込みのうえに成り立っているかのような社会である。(ジャン=ジョゼフ・グー)『〈借金人間〉製造工場 “負債"の政治経済学マウリツィオ・ラッツァラート:杉村昌昭訳
 時の意味を考えるとき、それは出来事の副産物と考えることもできる。出来事というものは一つ起きると、次の出来事へと進むものである。時は、二つの出来事の積み重ねの中に存続している。アインシュタインは、(警察官から陽子に至るすべての物質をひっくるめて)物も「出来事」だと書いている。なぜなら、出来事はある一瞬、ある場所で、一つの形でしか存在しえないからである。他のどんな一瞬とも違うし、すべてのことは、変わり続けている。この点においてアインシュタインは、「物」もまさに「出来事」だ、というわかりやすい見解を示した。私たちはある「出来事」と他の「出来事」により、「前」と「後」の感覚を得る。同じように、時の長さも(喪失も)、この理論に基づけば理解できる。時は、出来事を通してのみ計ることができるものなのだ。だから、もしもこの出来事がなかったら、時は自然に止まってしまう。また、もし出来事がたった一つしか怒らなくても、世界はどこにも存在できないし、何ものにもなれないだろう。「時」に意味がなくなってしまうからだ。(『刺激的で、とびっきり面白い時間の話 人、暦、時間 神々と「数」の散歩道』アレグザンダー・ウォー:空野羊訳)

時間
 さらにニュートン力学的宇宙観によれば、「すべての事象は数学的に表現できるような力学的法則に従い、したがって必然的である。この宇宙に偶然なものは本来存在しない」と考える。そうして、人間にとって「偶然」と見えるものは、対象についての知識が不十分なためにそのように思われるだけであり、したがって「偶然」とは単に「無知」の結果であるにすぎない、とラプラスは主張した。(『偶然とは何か その積極的意味』竹内啓)
 華厳とは雑華厳飾である。種々の色の花で装飾された仏の世界を意味する。(『華厳経』高銀:三枝寿勝訳)

仏教