蜂が刺しても、それを払うと叱られる。そんなことに気を散らしてはいけない、と。(『齋藤秀雄・音楽と生涯 心で歌え、心で歌え!!』財団法人民主音楽協会編)

斎藤秀雄
 インティファーダが始まるとアサーフ(※アブドゥルハミードの愛称)は緊急医療チームに志願し、ほとんどの時間を負傷者の救助や彼らの看病に費やすようになった。
 2001年1月7日、彼の遺体はネツァリーム交差点の近くで見つかった。前夜11時に父親の家を出たのちの彼の行方は分からない。翌朝、遺体が発見されたとき、片手の指はすべて切り落とされ、親指がかろうじてぶら下がっているだけだった。もう片方の手と腕とあごの骨は折られ、身体じゅうあざだらけだった。両手首の傷は、彼がきつく縛られていた証拠だった。その晩その地域で、イスラエル兵との衝突は1つも報告されていない。にもかかわらず、アサーフは明らかに拷問された揚げ句、20発以上の弾丸で、身体を穴だらけにされたのだった。(アブドゥルハミード・ハルティー、34歳)
(『シャヒード、100の命 パレスチナで生きて死ぬこと』アーディラ・ラーイディ/イザベル・デ・ラ・クルーズ写真:岡真理、岸田直子、中野真紀子訳)

パレスチナ
 家に上がれと言うのでバラックの中にお邪魔する。台所に腰掛けて改めて話を聞いた。流しの上にはジュース一本と豚肉のペーストの小さな缶詰が三つ。
「朝昼晩とこればかりなのよ。でも肉は身体が温まる。飢えと寒さにはこれが一番」
 そして客人にはまずこれを、と自家製のラキヤ(梅で作ったブランデー)を取り出しグラスに注いだ。バルカンのホスピタリティーを凄いと思うのはこういう時だ。貧窮極まる難民の家庭で幾度もてなされたことか。しかし、それが彼らにとっての尊厳なのだ。こういう時はありがたく頂く。一気に煽ると強烈なアルコールが胃壁にぶつかってくるのが分かる。
(『終わらぬ「民族浄化」 セルビア・モンテネグロ木村元彦
 制約の一生で終わってもいいのか。
 道徳法律、ありとあらゆる規則。
 その他、ろくでもない諸々の不文律。
 あなたはそんなものに振り回され、
 過剰に適応して生きてきたのか。
 それで生きたと言えるのか。
 胸を張って言えるのか。
(『荒野の庭』言葉、写真、作庭 丸山健二
 モルモン原理主義者は、現代のモルモン教徒とちがって、聖徒には複数の妻をめとる神聖な義務があると本気で信じこんでいるのだ。モルモン原理主義者の信奉者たちは、自分たちは宗教上の義務として一夫多妻制を実践していると説明しているのである。(『信仰が人を殺すときジョン・クラカワー:佐宗鈴夫訳)

宗教モルモン教信仰
 これはまた、神についての書物でもある――ひょっとすると、神の不在についての本かもしれないが。いたるところに神ということばが現われる。宇宙を創造するとき、神にはどんな選択の幅があったのか、というアインシュタインの有名な問いに答えるべく、ホーキングは探究の旅に出た。彼自身、明確に述べているように、彼は神の心を理解しようとくわだてたのである。この努力から導かれた結論は少なくともこれまでのところ、まったく予想外のものだった――空間的に果てがなく、時間的にはじまりも終わりもなく、創造主の出番のない宇宙。(「序」カール・セーガン)『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまでスティーヴン・ホーキング:林一訳
「ここで、寄せ集め解釈と切り口解釈の二つの解釈が出てきました。これは実は無限論の系譜を辿るときにたえず現われる対立しあう二つの立場なのです。寄せ集め解釈は、線分には無限個の点がすでに存在していると考えます。それに対して切り口解釈の方は、あくまでも可能性としての無限しか考えません。線分を切断すれば点が取り出せる。そしてそれはいつまでも続けていける。その可能性こそが無限であり、その可能性だけが無限だと言うのです。無限のものがそこにあるのだと考える立場から捉えられた無限は『実無限』と呼ばれ、可能性としてのみ考えられるとされる無限は『可能無限』と呼ばれます。実無限派にしてみれば、可能無限などは本物の無限ではありませんし、可能無限派にしてみれば、実無限など妄想の産物にすぎません。無限が完結した実体として存在するなど、可能無限派にしてみれば混乱し矛盾した概念でしかないのです」(『無限論の教室野矢茂樹
 昔から、――治人あり治法なし=人を得て治まるので、法の如何によるものではない。という言葉がある。(『雍正帝 中国の独裁君主宮崎市定

中国
 火を崇拝すると厄除けになるといわれるが、本文中に書いているように、釈尊が拝火教のカッサバ兄弟を帰依させた事例は、火を崇拝することの無意味を理解させるためであった。つまり火を崇拝すれば厄除けできるなら、火を取り扱う職業の人は毎日厄除けしていることになろう。何の災いもその人にはないはずなのに、どういうわけかそうではない。それは一体どういうことかと釈尊はいう。
 仏教信仰に金銭はいらない。たとえば極楽浄土にゆきたいと願う人に金銭を出せ、物品を買えと説いた経典があっただろうか。
 祈とうや呪文によって病気が治ったということはない。
 説法のなかで釈尊自身が自分の病気を祈とうや呪文によって治したと述べている例はまったくない。病気にかかったら医者の治療を受けている。釈尊は亡くなる前に激しい下痢をしている。これが死の直接の原因であるが、この時は医者は駆けつけていない。間に合わなかったのであろう。この苦しい最後の場面で釈尊は呪文を唱えただろうか。祈とうをしただろうか。すべて否である。
(『人間ブッダ田上太秀

ブッダ仏教
 知床半島の海岸とサロマ湖畔に、相次いで大量死したサンマが漂着したのは11月下旬のことだったが、同じ頃、テレビでは明石家さんまが一人で“大量死”していた。具体的には、新番組「明石家さんちゃんねる」(TBS系列水曜午後9時~)が、低迷しているのだ。関東地区の視聴率は初回が10.6パーセント、2週目は8.7パーセント。うん、ひどい。ゴールデンの数字ではない。
 内容は、数字以上にひどかった。いや、つまらないだけならいいのだ。つまらなくても、数字をとっている番組はある。さんまの番組は、ずっとそうだった。さんまほどの大物になると、内容が空疎でも視聴者を誘導するだけのオーラを持っている。視聴者は、さんまの顔を見ると安心する。と、要するに、そういう蓄積の上に、長らくこの男はあぐらをかいてきたわけだ。が、それももうおしまいだ。
(『テレビ救急箱小田嶋隆
「ファイナルアンサー?」と、みのが迫る……カメラがぐぐっと寄る。約3秒間のアップ。画面いっぱいの、みの。驚異的な顔面圧力。窒息的な引っ張り。凄い。……現代の悪代官みたいだ。
 水道メーターの談合でも、この顔を使ったんだろうか? 最終入札価格を調整する時、みのは、「ファイナルプライス?」と、言ったのだろうか。  ……毎日、テレビをつけると、必ず、みのもんたが出ている。たぶん私は、親戚縁者の誰よりも頻繁にみのと会っている。いや、家族の誰よりも、かもしれない。
 いやだなあ。
 で、結局、私の書斎は、みの常駐型のテレビのおかげで、嫌いな上司が巡回しているオフィスみたいな感じの、容易にくつろげない空間になっているわけだが、どうだろう、ソニーあたりが、みの強制削除機能付きのテレビを開発したら、オレは買うぞ。10万までは出す。みの排除機能が付くなら、さらに5万円出す。どうだ?
(『テレビ標本箱小田嶋隆
 ルワンダについて、ダレール氏は次のように語る。
「ルワンダはわたしを変えました。生涯心から消えることのない体験だったからです。大量虐殺は核兵器の使用と同じく、人類が越えてはならない一線です。それなのにわたしたちは、大量虐殺を未然に防ぐ努力を怠ってきたのです」
(『NHK未来への提言 ロメオ・ダレール 戦禍なき時代を築くロメオ・ダレール伊勢崎賢治
 1994年4月14日、ベルギー人PKO兵士10名が殺害されてから1週間後、ベルギーはUNAMIR(国連ルワンダ支援団)から離脱した――フツ至上主義者たちが狙っていたとおりになった。政府の臆病さと無駄になった任務に怒り、兵士たちはキガリ空港の滑走路で国連のベレー帽を破り捨てた。1週間後、1994年4月21日、UNAMIRの司令官ダレール少将は、充分な装備の兵士わずか5000人とフツ至上主義者と戦う許可さえ得られれば、ただちにジェノサイドを止められる、と述べた。わたしが確認した軍事アナリストの中にダレールの判断を疑う者はおらず、多くはその分析に同意した。RTLMのラジオ放送施設が、明白かつ容易な最初のターゲットになる。だが、その同じ日、国連安保理事会はUNAMIRの要員を9割削減する決議を可決した。UNAMIRは270名を残して撤退することになり、残った兵士にも砂嚢(さのう)の裏に隠れて事態を見守る以上のことはできないような命令を与えた。
 国連軍のルワンダ撤退はフツ至上主義党による最大の外交的勝利であり、その責任はほぼ完全に米国にある。ソマリアでの大失敗の記憶がまだ生々しかったホワイトハウスは大統領決定指示(PDD)第25号なる文書を起草したところだった。これは要するに米国が国連平和維持活動への関与を避けるべき理由をまとめたチェックリストである。ダレールが求めた増援と攻撃指令が米兵を必要とせず、その任務が正確には平和維持活動ではなくジェノサイド防止であろうが、そんなことは関係なかった。PDD第25号には同時にワシントンの政策決定者が「政策言語」と呼ぶものまで含まれ、米国は自分が参加したくない任務を実行しないよう他国にも働きかけるべきだ、とうながしている。実際、クリントン政権下の国連大使マデリーン・オルブライトはルワンダにわずか270名の基幹定員を残すことにすら反対した。
(『ジェノサイドの丘 ルワンダ虐殺の隠された真実フィリップ・ゴーレイヴィッチ:柳下毅一郎訳)
 作家のV・S・ナイポールが記しているように、『自伝』のうち250頁が南アフリカに費やされているが、この国の黒人問題についてはほぼ一言も触れていないことは注目に値する。あたかも彼らは存在していなかったかのようである。南アフリカの問題は、白人とインド人の平等認識問題に帰している。当時のガンジーを動機づけていたのは、社会正義そのものというよりは、南アフリカ社会における同郷インド人の権利であった。(『ガンジーの実像ロベール・ドリエージュ今枝由郎訳)

ガンディー
 ゲーテはドイツ人をユダヤ人やギリシャ人と同様に悲劇の民と呼んでいるが、今やドイツ人はあたかも浅薄で意思を持たない追従者の群れのようだ。内面の奥底から骨の髄まで吸い取られ、自分自身の核となるものを奪われて、甘んじて破滅へと追い立てられゆく群れだ。見かけはそうだが、実は違う。実は、偽りの姿をとってゆっくりと忍び寄る組織的な暴力に無理強いされ、一人一人が精神の独房に閉じ込められてしまった。そして、そこに縛り上げられて横たわった時初めて、おのれの身の破滅に気づいたのだ。(※白バラのビラI)『「白バラ」尋問調書 『白バラの祈り』資料集フレート・ブライナースドルファー編:石田勇治、田中美由紀訳
 ――サンスクリットで「妙法」は「サット・ダルマ」になりますが、ありのまま、というのは“サット”ということですね。

松山●“サット”というのは、「ある」という、“アス”という動詞の現在分詞だから、「ありつつある」というのも変だけど、その本当の〈ありのまま〉がいいことだという考えがずっと残っているのは、インド人の非常に素直なところでしょう。

(『蓮と法華経 その精神と形成史を語る松山俊太郎

仏教
 そもそもその大老人が――ある老人病院のお医者さまの観察によると――「長命の人々は、みんな春風たいとう、無欲てんたんのお人柄かと思ったら決してそうじゃなく、みなさんひとの頭でも踏みつけて人生を越えてこられたような個性の持ち主に見えますがね」だそうだ。(『あと千回の晩飯山田風太郎
 運命を変えるには単に信念を持って行動を続けるとか、真面目にコツコツ努力すればいいというものではありません。変化を感じ取り、流れをつかめばおのずと運命は変わっていきます。すべてのものは絶え間なく変化しているのであり、それにリズムを合わせることが出来れば自然に運命は変わっていきます。運命を変えたいのになかなか変わらないなと思っている人は、周りで起こっている変化を感じようとしないので換わらないのです。変化をつかみ、その上でさらに自分が望む流れをつくっていこうと思えば運命は確実に変わります。(『運に選ばれる人  選ばれない人桜井章一
 これはけっして、犬やヒヒがあまりにも愚かもしくは間抜けだから、あるいは鏡の像に関心がないから、鏡の像を自分と結び付けることができないということではなく、彼らが自己という概念を把握することがまったくできないらしいということなのだ。ここで強く示唆されているのは、これらの動物が自分の心の状態を反映する手段をもたず、「私はこれが欲しい、私はこう感じる」といったことをけっして考えず、ましてや「もし私があなただったら、こう感じるでしょう」と想像することなど、けっしてできないということなのだ。(『内なる目 意識の進化論ニコラス・ハンフリー:垂水雄二訳)

鏡像認知認知科学
 しかも、証券化することで、債権(負債)を自社の財務諸表から切り離せるばかりか(「オフバランス」という)、販売することで新しく資金調達をすることが可能になる。(『無法バブルマネー 終わりの始まり 「金融大転換」時代を生き抜く実践経済学松藤民輔
 ネットワークのノードはどれも平等であり、リンクを獲得する可能性はどのノードも同じである。しかしこれまで見てきた実例が教えているように、現実はそうなっていない。現実のネットワークでは、リンクがランダムに張られたりはしないのだ。リンクを呼び込むのは人気である。リンクの多いウェブページほど新たにリンクを獲得する可能性が高く、コネの多い俳優ほど新しい役の候補に挙がりやすく、頻繁に引用される論文はまた引用される可能性が高く、コネクターは新しい友だちを作りやすい。ネットワークの進化は、優先的選択という、デリケートだが情け容赦のない法則に支配されている。われわれはこの法則に操られるようにして、すでに多くのリンクを獲得しているノードに高い確率でリンクするのである。(『新ネットワーク思考 世界のしくみを読み解く』アルバート=ラズロ・バラバシ:青木薫訳)

ネットワーク科学
 大体、「ギネス認定」自体がインチキだってことを誰も知らないんだろうか?
 ギネスブックなんて、単なる私企業(ビール会社)が出してるパンフだぜ。
 だから、そこで言っている「世界一」というのだっておよそ恣意的なものなわけだ。
 いや、恣意的どころか、「認定料」を取るんですよ、このギネス協会って詐欺まがいの組織は。
(『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド小田嶋隆
 科学はそれほど単純ではありません。さまざまな条件や量の大小などによって良くも悪くもなります。白か黒かではなく、グレーゾーンが大部分なのです。
 マスメディアは、このグレーゾーンをうまく伝えることができません。多種多様な情報の中から自分たちにとって都合の良いもの、白か黒か簡単に決めつけられるようなものだけを選び出し、報道します。メディアによる情報の取捨選択のこうしたゆがみは、米国では「メディア・バイアス」と呼ばれています。
(『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学松永和紀
 鎌倉時代には、世界の宗教史上にもまったく例をみないほど、すぐれた人材が相前後して輩出して、新しい仏教を展開した。この史上の景観は、偶然に展開したのではない。武士と呼ばれる新しい階級が、これまでの貴族の権力を押しのけて台頭し、貴族と結ぶ南都北嶺の仏教をささえてきた律令体制にかわる封建体制を建設した必然の結果として、新仏教の誕生を促したからである。古い仏教では、新しい時代の要求にはこたえられない。新しい時代は、また新しい宗教を要求するのである。(『鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮戸頃重基
 かのアインシュタインは、「数学における最も偉大な発見の一つは、複利の発見である」と言っています。また、ロスチャイルドは、世界の七不思議とは? と訊かれた時、「それは分からないが、8番目の不思議が複利である、というのは確かだ」と答えたそうです。(『貧乏人のデイトレ 金持ちのインベストメント ノーベル賞学者とスイス人富豪に学ぶ智恵北村慶
 こうした(※アンケート調査で「霊は実体を持った存在である」と回答した)人々の中には、「自らの体験」だけでなく、「他者の体験」を根拠として採用する場合もある。この場合の「他者」は「自らの判断を準拠できる程度に信用できる他者」であって、あまり信頼性のない他者の判断は採用されない傾向がある。すなわち、「自分から見て一枚上手(うわて)の者」「自分より優れていると一目おいている者」「人間関係において自分よりも上位に位置する者」などが準拠の対象とされ易い傾向がある。また、「(母親が)見たことがある(と言っていた)」という事実を「霊が存在する証拠」と考える思考法の背景には、少なくとも、「母親が体験した(と主張している)ことは、客観的な批判の対象であるよりはむしろ、それ自身、真実であることの証である」と考えていることを示唆するものであり、母親を客体として見ることのできない、思考態度におけるある種の「マザー・コンプレックス」の一形態とも言える。こうした「引きずられた幼児性」は「自我(アイデンティティ)の未確立」の裏返しとも解釈できるかもしれない。(『霊はあるか 科学の視点から安斎育郎

科学権威
 チャーリーを車から出した。と、いきなり灰色の物体が飛び出してきた。怒気をあらわにした生き物である。それは松を切り払った空き地を一直線に横切り、家の中へと突っ込んでいった。それがジョージだった。彼は私が来たのを喜んではいなかったし、チャーリーについてはなおさらだった。
 まともにジョージを見る機会はまるでなかったが、いたるところで彼の不機嫌な気配を感じた。この灰色の老猫には人や物への憎しみが強烈に積み重なっているので、たとえ上の階に隠れていても出て行けという悪態が伝わってくるのだ。もしも爆弾が落ちてきてミス・ブレイス以外の生き物を全滅させたとしたら、ジョージは幸せになるのだろう。彼が世界を支配できたらそうするはずだ。
(『チャーリーとの旅ジョン・スタインベック:竹内真訳)
 学問が手段化されることは、一人一人の人間が手段化されることと無関係ではありません。学問は、自己目的であってはならないけれども、単なる手段であってもならない。学問の自己目的化と手段化という古くからの難関は、実は、社会を成して生きている個々の人間と社会とがどうかかわっているか、どうかかわるべきかということと深いところで結びついています。人間は孤立した存在ではないけれども、集団の単なる構成要素でもない。一人一人の人間が学問的思考を有効に身につける意味が、そこにあるのです。(『社会認識の歩み内田義彦
 中世のあいだ、学問教会によって厳しく監督され、上流階級の一員でも、聖職者にならないかぎりは無学になりがちだった。
 ルネッサンス初期の商人階級の台頭によって、学問を奨励するような雰囲気が作り出され、印刷機の発明がそれを助けた。
(『黒体と量子猫 ワンダフルな物理史ジェニファー・ウーレット:尾之上俊彦、飯泉恵美子、福田実訳)

科学
 私たちのほとんどはとても保守的です。君たちは、その〔保守的という〕言葉がどういう意味であるのかを、知っていますね。「保守する」とはどういうことかを知っていますね――保つ、守るのです。私たちのほとんどは、〔尊敬されるよう〕体裁よくしていたいのです。それで、正しいことをやりたいし、正しい行ないに従いたいのです――それは、とても深く入るなら分るでしょうが、恐れの表示です。なぜまちがえていけないのでしょうか。なぜ見出さないのでしょうか。しかし。それている人はいつも、「私は正しいことをしなければならない。体裁よく見えなければならない。本当のありのままの私を公に知らせてはならない」と考えています。こういう人は基本的に、根源的に恐れています。野心を持っている人は本当は怯えた人物です。そして怯えている人は、どんな愛をも持ちません。どんな同情も持ちません。彼は壁の向こうに監禁された人物に似ています。私たちが若いうちに、このことを理解すること、恐れを理解することが、とても重要です。私を服従させるのは、恐れです。しかし、私たちはそれについて話し合い、ともに推理し、ともに議論し、考えることができるなら、そのとき私は、頼まれたことを理解して、できるかもしれません。しかし、私が君に怯えているからといって、私が理解しないことをやるよう私に強制すること、強いることは、まちがった教育でしょう。(『智恵からの創造 条件付けの教育を超えてJ・クリシュナムルティ:藤仲孝司、横山信英、三木治子訳)
 アンベードカルは厳しく同胞に迫った。「失った権利は、簒奪者に嘆願したり、かれらの良心に訴えたりすることによっては決して取り戻すことはできない。それを可能にするのは容赦ない戦いのみである」と。(『アンベードカルの生涯ダナンジャイ・キール山際素男訳)