ナチスドイツの諜報機関ほど謎に包まれ、十分に理解されていない諜報機関はあまりない。頭文字をとってアプヴェーアと呼ばれるドイツ国防軍情報部は、嘘偽りと、相容れない事実のベールで覆い隠されている。これはかなりの部分が、ドイツのスパイマスターのなかでもひときわ抜きん出ていた一人の人物、1935年1月から1944年3月まで国防軍情報部の長官をつとめたヴィルヘルム・カナリス提督に起因する。カナリスは当初ヒトラーの熱烈な支持者だったが、第二次世界大戦が進むにつれてナチスに幻滅するようになった。彼は、総統のために忠実なスパイマスターの役割を演じようとする一方で、敵に対しては、わずかながらでも礼儀正しく接し続けようとした。それどころか、ほとんと活動を停止していたものの常に存在し続けていたドイツの反体制運動を支持していたのである。ヒトラーの壮大な野望を実現しようとした組織、ほかならぬドイツ国防軍が、同時にヒトラー抵抗勢力の源ともなっていたことは、第三帝国の摩訶不思議なるパラドックスの一つであった。ドイツ国防軍の中でも、情報部ほど強烈にヒトラー政権に反対を唱え、さまざまな階級に共謀者を抱えていた組織はほかにない。最終的に、カナリスとその忠実な部下のほとんどは、命を代償にしてヒトラーに抵抗した。(『ヒトラーのスパイたち』クリステル・ヨルゲンセン:大槻敦子訳)