増税につぐ増税、「失業者」の増大、マッチや砂糖すら配給(切符制)、……と全国民が一斉に「貧困者」への転落を強要された。それが日中戦争の結末であった。「ぜいたくは敵だ!」の立て看板が銀座など東京に初めて立てられたのは、1940年8月1日であった。婦人のパーマネントも禁止され、ネオンサインも廃止となり、ダンスホールも閉鎖となった。
 このように、日本中が暗く貧しくなり、経済的にも破綻寸前にまでなったが、それは1941年12月のパール・ハーバー奇襲に始まる超大国の米英を相手の戦争によるのではなく、貧弱な兵器や未熟な軍隊の軍事「後進国」にすぎない中国を対手(あいて)とする戦争によってであった。日中戦争の不可解さは実はここにある。これこそはまた、表面上は「無目的」にみえる日中戦争にかけた近衛文麿らの“秘められた戦争目的”をあぶり出す鍵(かぎ)でもある。
(『近衛文麿の戦争責任 大東亜戦争のたった一つの真実』中川八洋)

大東亜戦争