いかなるジャンルの台本であろうと、現場担当者が作家にする注文は「もっとくだらなく」「もっとばかばかしく」「もっと低俗に」に集約される。
現在、娘が強要され、ついに降りざるを得なくなったその「もっと・注文」は、私が日本嫌悪のあまり豪州に脱出した1987年の時点の千倍、いや万倍に達する「増加」ぶりである。
過言ではない。奇を衒(てら)って誇張しているのではない。
もし人間に理性があり、常識と良識が残っているのならば、この「もっと」がいかに非人間化を促進させる内容か、納得するはずだ。私はその千分の一、万分の一にも我慢ができなかった。たとえば、以前他の文章にもした内容だが、私が筆を折る最後の決意は、日本テレビ系の連続ドラマを書いている最中に起きた。ワンクール予定の4回目、視聴率が落ちた。プロデューサーが私に注文した。「林さん、次の回で、レイプシーンを書いてください」
「いったい、登場人物の誰が誰をレイプするんだ」
絶句して私が訊ねた。
「それは、お任せします。誰が誰でもかまいません」
「しかし、今までのストーリー進行の中に、そんな可能性のある設定はどこにもない」
「そこにこそ、意外性、つまりドラマ性がある」
(『おテレビ様と日本人』林秀彦)
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