子曰く、学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し。(為政第二)

 先生は言われた。「書物や先生から学ぶだけで自分で考えないと、混乱するばかりだ。考えるだけで学ばないと、不安定だ」。

(『論語入門』井波律子)

孔子
 この理不尽なイギリスの行為は、隣国日本に衝撃を与えました。当時、長崎でこのアヘン戦争について知ることになった若き吉田松陰は驚愕しました。平戸滞在中に松陰が読んだとされる書物に『阿芙蓉彙聞』(あふよういぶん)7冊があり、その中に「阿片始末」があります。その一文字一文字が松陰の心に刺さり、それが後の彼の言動の基礎になっています。
 日本は、直接的ではありませんが、アヘン戦争という痲薬(まやく)に関わる事件に大きな影響を受け、それがやがて明治維新につながります。歴史はあざなえる縄の如く、絡み合い、離れ、意外なところで関係を持ちながら続いていくから面白いのでしょう。(『大麻ヒステリー 思考停止になる日本人武田邦彦
 ホッと安堵して小説家はなみなみと注がれた風船玉グラスをじっと眺めた。さっきいったように今日と今夜は酒だけに集中するつもりである。グラスは変貌していた。瑪瑙(めのう)の髄部だけで作った果実のようなものがそこにある。いや。それに似ていながら、定着もせず、閉じもせず、深奥を含みながら晴ればれとしたものである。太陽は濁って萎(しな)び、広い干潟をわたってくるうちに大半を喪ってしまうが、それでも一条か二条かの光めいたものがまだあるらしく、果実は鮮やかな深紅をキラキラと輝かせた。その赤にはいいようのない深さがたっぷりとあり、暗い核心のあたりに大陸か、密林か、淵かがひそんでいそうである。風のなかを山腹にむかって斜めに、空か谷のほうへかすめ飛ぶ秋の雉子(きじ)の、首、尾、翼、そのどこかにこれとそっくりの一閃があったように思う。この時期に、こういうものを見ると、それだけでくぐもっていたものがほどけ、散乱が消え、何のあてもないのに眼が澄んできそうである。(『ロマネ・コンティ・一九三五年 六つの短篇小説』開高健)

アルコール
 目は心の窓だといいます。
 このごろは、この心の窓のまわりに黒い窓枠をつけたり、青いアイシャドオ(ママ)のカーテンをかけたり、窓を飾ることがはやっておりますが、窓の本当のよさは、内側からは、外の景色がよく見え、また外側からは、内側の、つまり窓の持主の精神の美しさが判(わか)る、ということではないかと思います。
(『男どき女どき 』向田邦子)
小室●しかし、避けられたか避けられなかったかは別にして、二つの大戦があったおかげでヨーロッパの世界支配は覆(くつがえ)り、アジア、アフリカ諸国も独立できた。これは事実です。だからこの二つの戦争は避ければ、あるいは避けられたかもしれなかったけれども、私は避けなくてよかったと思います。(『新世紀への英知 われわれは、何を考え何をなすべきか渡部昇一谷沢永一小室直樹
 江戸では、トイレの汚水は下水に流さなかった。すべて溜めていたのだ。その処理権利を購入した者が汚水を汲み取り、農家に売った。意外なほどの利潤が上がったそうだ。つまり江戸時代の日本は、世界初の完全有機・無農薬リサイクル農法を完成させていたのだ。
 一方、生活用水等の通常下水道も、途中、何度も自然柵で濾過(ろか)し、最終的に飲み水と同じくらいの純度で綺麗にして川に返していた。これを取り締まるのに下水奉行までいたわけである。
 同じ時代、欧州の貴族たちは壷で用を足し、壷が一杯になるとそれを窓から道路に捨て、通りに豚を放ち汚物を食べさせるという処理だった。下水や汚物処理の文化さえなかったのだ。そのため、コレラ等の疫病発生が常態化していた。
(『マインドコントロール2 今そこにある情報汚染池田整治
「エネルギーさ。わかるか? 量子物理学によれば、物質は現実には存在していないことになる。古典物理学が物質と考えていたものは、原子からできている元素の合成物であり、その原子はクオークとレプトンからできている――いいかえればエネルギーというわけだ。かくして、物質はエネルギーだということになる」(『数学的にありえないアダム・ファウアー:矢口誠訳)

数学
 ちなみに「脳の大型化」は第2章で見るが、約240万年前以降のことだ。「複雑な言語の使用」は、化石からは読みとりにくいが、最新の証拠によると7万5000年前ごろには獲得していたらしい。(『人類進化の700万年三井誠
 地球の直系が豌豆豆(えんどうまめ)くらいになる縮尺で太陽系を作図すると、木星は300メートル先、冥王星は2.4キロ先になる(しかも大きさはバクテリア程度だから、どのみち見ることができない)。同じ縮尺率を用いた場合、太陽系にいちばん近い恒星プロキシマ・ケンタウリに至っては、ほぼ1万6000キロの彼方だ。全体の縮尺率を上げて、木星が文末のピリオド、冥王星がせいぜい分子のサイズになるように縮めたとしても、冥王星はまだ10メートル以上向こうになる。(『人類が知っていることすべての短い歴史ビル・ブライソン楡井浩一訳)
 諸君は永久に生きられるかのように生きている。諸君の弱さが諸君の念頭に浮ぶことは決してない。すでにどれほどの時間が過ぎ去っているかに諸君は注意しない。満ち溢れる湯水でも使うように諸君は時間を浪費している。ところがその間に、諸君が誰かか何かに与えている一日は、諸君の最後の日になるかもしれないのだ。諸君は今にも死ぬかのようにすべてを恐怖するが、いつまでも死なないかのようにすべてを熱望する。(『人生の短さについて 他二篇セネカ茂手木元蔵訳)
(1901年12月)17日の葬式は、彼(※中江兆民)の遺言により、一切宗教的儀式を排するために、「告別式」という形で行われた。これが日本における「告別式」の始まりである。然るに、すべてをあいまい化してしまう日本人は、やがて「告別式」のほかにも依然二重の手間をかけて「葬式」は行い、兆民の考えた「告別式」と別の形態のものにしてしまった。
 兆民は墓さえ作らせなかった。
(『人間臨終図巻山田風太郎
 釈尊には生涯を通して、自分が修行者の集まりのリーダーであるとか、帰依者たちの師であるとかの気持ちがなく、また、そのような態度で話すこともありませんでした。つねに自分は修行する仲間の一人という気持ちを持ち続けました。(『人間ブッダ田上太秀

ブッダ仏教
 例を三つ挙げておく。(1)集団が貧しいほど、その代償の一形態として、集団ナルシズムを使う傾向が強い。(2)集団が大きいほど、それと同一化することによって個人の得ることのできるナルシスチックな満足は低下し、集団のきずなは弱まり、さらにまた、個人がその集団内の下位集団に同一化してしまう傾向が強くなる。(3)国家の一部分にとどまっている際には均質なように見えるある地域に、実は何らかの形の小集団が既に存在しているとすれば、仮にその地域が独立してしまうと、もはやかつての均質性は維持できなくなる。独立によって政治的境界が一段せばめられたことに反応して、当該地域の人々は、さらにもう一段下位の集団に、自己同一化しようとするからである。
 以上を要約すると次のように言える。すなわち人間にみられる「芯の柔らかい」利他主義には、強烈な情緒と同時に、忠誠関係形成の変幻自在性という特徴が備わっているのである。人間は、社会的道徳を所持するという点では常に一貫しているのだが、その道徳を誰に適用するかという件に関しては、この上なく移り気な存在なのである。絶対不変と信じられている道徳的規則に対して強い情緒的な訴えを行ないながら、同時にいとも簡単に同盟関係を形成し、破棄し、そしてまた別の相手と結び直すという事実の中にこそ、人間の社会性の、たぐいまれな性格があるのである。おそらく氷河期以来ずっと同じだったのであろうが、今日においても、仲間集団とよそもの集団の区別は大変重要である。
 しかし、この両者を分かつ境界線は簡単にあちこちへ移動してしまう。プロスポーツは、このような基本的現象がいまも消滅せずに我々につきまとっていることを土台にして栄えているのだ。
(『人間の本性についてエドワード・O・ウィルソン岸由二訳)
 レトリックとは、あらゆる話題に対して魅力的なことばで人を説得する技術体系である。(『日本語のレトリック 文章表現の技法』瀬戸賢一)
菅沼●サッスーン家というのは、ダマスカスかどこか中東の出身なんですよ。あと上海に来た。上海は、戦前・戦中まではサッスーンの街だったんだから。当時、例えば日本は、満州を開発しないといかぬというわけでしょう。満州重工業鮎川義介〈あゆかわ・よしすけ〉なんていたじゃないですか。そういう人たちが、日本はカネがないから、それともう1つは政治的な意味もありましたけど、サッスーンにカネ借りに行ったわけですよ。(『なぜ不死鳥のごとく蘇るのか 神国日本VS.ワンワールド支配者 バビロニア式独裁か日本式共生か 攻防正念場!菅沼光弘ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄)