東アジアにおけるイギリスの最大拠点だったシンガポールが日本の手で陥落した際、フランスの軍人(のちの大統領)ド・ゴールは「アジアの白人帝国の終焉(しゅうえん)だ」と日記に書き記しています。
「日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかにした点にある。(イギリスの歴史学者アーノルド・トインビー)
「民族主義者は日本占領期間中に身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して西洋の植民地支配復帰に対抗した。そして、日本による占領下で民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである」(コロラド大学教授J・C・レブラ)
(『学校では絶対に教えない植民地の真実 朝鮮・台湾・満州』黄文雄〈コウ・ブンユウ〉)
日本近代史
私は司馬さんの愛読者ではないけれど、『坂の上の雲』は面白いと思っていました。その日も「雲を求めて、坂を上ってきた日本は、その歴史をどう見通すことができるか」という話ができればと考えていました。
ところが司馬さんが、
「結局、雲はなかった。バルチック艦隊の最後の軍艦が沈んだ時から日本は悪くなった」
「日露戦争までの日本史は理解できるが、昭和に入ってから20年間の歴史は他の時代とはまったく違い、断絶している、非連続だ」
と言うに及んで、反論のスイッチが入りました。
坂を上っていって、雲をつかめたかどうかはわからないけれど、かつて夢にまで見た、西欧的な産業国家になったのは事実です。司馬さんのような見方は、西欧コンプレックスそのものだし、東京裁判の図式と変わらないではないか、といつもの調子で言い募ってしまったのです。
2~3日してから嶋中さんが、
「非常に面白い対談になったけれど、司馬さんは我が社にとって貴重な財産です。司馬さんは大変なショックを受けてしまいましたから、雑誌に載せるのはやめにしましょう。『日本の近代』の企画もしばらく凍結しましょう」
と言ってきて、司馬さんとはそれきりになりました。
(『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』伊藤隆)
ところが司馬さんが、
「結局、雲はなかった。バルチック艦隊の最後の軍艦が沈んだ時から日本は悪くなった」
「日露戦争までの日本史は理解できるが、昭和に入ってから20年間の歴史は他の時代とはまったく違い、断絶している、非連続だ」
と言うに及んで、反論のスイッチが入りました。
坂を上っていって、雲をつかめたかどうかはわからないけれど、かつて夢にまで見た、西欧的な産業国家になったのは事実です。司馬さんのような見方は、西欧コンプレックスそのものだし、東京裁判の図式と変わらないではないか、といつもの調子で言い募ってしまったのです。
2~3日してから嶋中さんが、
「非常に面白い対談になったけれど、司馬さんは我が社にとって貴重な財産です。司馬さんは大変なショックを受けてしまいましたから、雑誌に載せるのはやめにしましょう。『日本の近代』の企画もしばらく凍結しましょう」
と言ってきて、司馬さんとはそれきりになりました。
(『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』伊藤隆)
『はだしのゲン』は『少年ジャンプ』に連載されていたのですが、余りにその偏向の度が過ぎ、読者からのクレームが付きました。連載が休止になったのち、単行本化が進められたのですが、その際に日教組が強力な普及運動を展開したのです。(『人種差別から読み解く大東亜戦争』岩田温〈いわた・あつし〉)
人種差別/日本近代史
人種差別/日本近代史
近衛はしばしばその弱い性格を云々(うんぬん)された。宇垣一成(うがきかずしげ)は近衛の伝記を書いた矢部貞治(やべていじ)に、「近衛公は聡明で気持がよいが、知恵が余って胆力と決断力がなかった。知恵は人から借りられるが、度胸は人から借りられない」と語ったという。近衛自身もその事を意識していた。だからこそ近衛が強いものにあこがれていたということもいえるのである。昭和13年に社会大衆党の西尾末広(にしおすえひろ)議員が近衛に対して「もっと大胆に、日本の進むべき道はこれであると、ムッソリーニの如く、ヒットラーの如く、或はスターリンの如く、大胆に日本の進むべき道を進むべきであります」と激励し、そのスターリンの一語によって議員を除名されたが、近衛が、昭和12年4月、次女温子の結婚前日自宅で催された仮装パーティの際ヒットラーの仮装をつけたというのは、極めて興味深いエピソードといわねばならないだろう。(『大政翼賛会への道 近衛新体制』伊藤隆)
近衛文麿/日本近代史
近衛文麿/日本近代史
端的に言えば、アジア太平洋で戦争を引き起こし、世界を混乱させたのは日本ではなく、ソ連・コミンテルンとルーズヴェルト民主党政権だったのではないか、という視点が(アメリカで)浮上してきているのです。日本からすれば、我々が戦ったのはアメリカのルーズヴェルト民主党政権だったわけですが、そのルーズヴェルト民主党政権はソ連・コミンテルンの工作員たちによって操られていたのではないか、ということです。(『日本は誰と戦ったのか コミンテルンの秘密工作を追求するアメリカ』江崎道朗〈えざき・みちお〉)
ヴェノナ/日本近代史
ヴェノナ/日本近代史
別れに臨んで蒋(介石)は、根本(博)の手を強く握り、
「東亜の平和は、わが国と日本が手を握ってゆく以外に道はない。あなたはかならず中国へ帰ってくるんだ。そして私と協力しよう」
と言った。
(『四万人の邦人を救った将軍 軍司令官根本博の深謀』小松茂朗)
日本近代史
「東亜の平和は、わが国と日本が手を握ってゆく以外に道はない。あなたはかならず中国へ帰ってくるんだ。そして私と協力しよう」
と言った。
(『四万人の邦人を救った将軍 軍司令官根本博の深謀』小松茂朗)
日本近代史
私たちは英軍兵舎の掃除にノックの必要なしといわれたときはどういうことかわからず、日本兵はそこまで信頼されているのかとうぬぼれた。ところがそうではないのだ。ノックされるととんでもない恰好をしているときなど身支度をしてから答えねばならない。捕虜やビルマ人にそんなことをする必要はないからだ。イギリス人は大小の用便中でも私たちが掃除しに入っても平気であった。(『アーロン収容所 西欧ヒューマニズムの限界』会田雄次〈あいだ・ゆうじ〉)
日本近代史
日本近代史
アメリカにとって日本人が犯した最大の罪は、アジア主義の旗を掲げて、有色民族に誇りをいだかせることによって、白人の誇りを貶(おとし)めたことだった。
極東国際軍事裁判は、なによりも日本が白人上位の秩序にって安定していた、世界の現状を壊した。「驕慢(きょうまん)な民族主義」を大罪として、裁いた。
事実、日本は白人の既得権益を壊して、白人から見ておぞましい成功を収めた。
(『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン:加瀬英明監修、藤田裕行訳)
人種差別/日本近代史
極東国際軍事裁判は、なによりも日本が白人上位の秩序にって安定していた、世界の現状を壊した。「驕慢(きょうまん)な民族主義」を大罪として、裁いた。
事実、日本は白人の既得権益を壊して、白人から見ておぞましい成功を収めた。
(『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン:加瀬英明監修、藤田裕行訳)
人種差別/日本近代史
わが国が戦争に負けた1945年8月14日のアメリカの新聞ニューヨーク・タイムズは「我々は初めてペリー以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これで中国大陸のマーケットは我々のものになるのだ」と書きました。この記事は、ペリー以来のアメリカのねらいが何であったかをよく示しています。ペリー来航はマニフェスト・ディスティニー(明白なる運命)と名づけられた世界戦略が、わが国に矛先(ほこさき)を向けた歴史的事件にほかならなかったのです。(占部賢志〈うらべ・けんし〉)『教科書が教えない歴史』藤岡信勝、自由主義史観研究会
日本近代史
日本近代史
たとえば第二次世界大戦は次のように言われる。
「持たざる国日本、ドイツ、イタリアの枢軸国と、持てる国アメリカ、イギリス、ソ連の連合国が戦った戦争」
(『日中戦争はドイツが仕組んだ 上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ』阿羅健一〈あら・けんいち〉)
日本近代史
「持たざる国日本、ドイツ、イタリアの枢軸国と、持てる国アメリカ、イギリス、ソ連の連合国が戦った戦争」
(『日中戦争はドイツが仕組んだ 上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ』阿羅健一〈あら・けんいち〉)
日本近代史
「ヤポンスキーよ、革命というものは恐ろしいものだ」
と私の傍らにいた50年輩の官吏らしいロシア人が、私の耳許でささやいた。
「王朝時代……と言ってもつい2~3ヵ月前までは金モールを身につけて威張っていた官吏や軍人をご覧なさい。気の毒なものです。ヤポンスキーよ。革命を見に来られたのか。この惨めな情況をよく見て、あなたの国の人々に伝えて下さい。決して、決して、このような革命を起こしてはなりませぬ」
(『誰のために 新編・石光真清の手記(四)ロシア革命』石光真清〈いしみつ・まきよ〉:石光真人〈いしみつ・まひと〉編)
日本近代史
と私の傍らにいた50年輩の官吏らしいロシア人が、私の耳許でささやいた。
「王朝時代……と言ってもつい2~3ヵ月前までは金モールを身につけて威張っていた官吏や軍人をご覧なさい。気の毒なものです。ヤポンスキーよ。革命を見に来られたのか。この惨めな情況をよく見て、あなたの国の人々に伝えて下さい。決して、決して、このような革命を起こしてはなりませぬ」
(『誰のために 新編・石光真清の手記(四)ロシア革命』石光真清〈いしみつ・まきよ〉:石光真人〈いしみつ・まひと〉編)
日本近代史
冬籠りの3ヵ月、ついに最後の日が来た。明治38年3月8日である。この日が、わが第二軍の最後の死闘の日となり、また日露戦争における陸戦の幕が閉じられる日ともなった。
3ヵ月の間、氷原の友とまっていた日露両軍は、突如として凄惨な死闘の鬼となって、広大な野戦を展開したのである。戦線は入り乱れ、随所に白兵戦が起り、伝令は杜絶え補給は断たれ、司令部の命令は、辛うじて師団に達しても、師団命令は第一線の諸部隊には伝わらなかった。連帯命令でさえが徹底せずに、随所に分散した小部隊は、敵兵と見れば出会い頭(がしら)に射ち合い、弾が尽きれば銃を構えて飛びこんでいった。誰が命令するわけでもないし、誰が督戦するわけでもない。敵か味方か、この二つしかなかった。そこには作戦もなければ戦略もなかった。
(『望郷の歌 新編・石光真清の手記(三)日露戦争』石光真清〈いしみつ・まきよ〉:石光真人〈いしみつ・まひと〉編)
日本近代史
3ヵ月の間、氷原の友とまっていた日露両軍は、突如として凄惨な死闘の鬼となって、広大な野戦を展開したのである。戦線は入り乱れ、随所に白兵戦が起り、伝令は杜絶え補給は断たれ、司令部の命令は、辛うじて師団に達しても、師団命令は第一線の諸部隊には伝わらなかった。連帯命令でさえが徹底せずに、随所に分散した小部隊は、敵兵と見れば出会い頭(がしら)に射ち合い、弾が尽きれば銃を構えて飛びこんでいった。誰が命令するわけでもないし、誰が督戦するわけでもない。敵か味方か、この二つしかなかった。そこには作戦もなければ戦略もなかった。
(『望郷の歌 新編・石光真清の手記(三)日露戦争』石光真清〈いしみつ・まきよ〉:石光真人〈いしみつ・まひと〉編)
日本近代史
思えば当時の民間人の国家意識は強いものであった。日清戦争後の三国干渉に憤激した志ある人々は、軟弱な政府を頼むに足らずと、悲壮な気持を抱いて続々と大尉陸へ渡り、各自思うところに愛国の熱情を傾けていたのであった。或はまた、ロシア軍に蹂躙された満州の市場に日本商品の販路を獲得しようとする商人や実業家も、政府機関に援助を求めるわけでもなく、単身ウラジオストックに上陸してロシア軍の動静を探りつつ、満州深く足跡を印したのであった。(『曠野の花 新編・石光真清の手記(二)義和団事件』石光真清〈いしみつ・まきよ〉:石光真人〈いしみつ・まひと〉編)
日本近代史
日本近代史
「いつの世にも同じことが繰返される。時代が動きはじめると、初めの頃は皆同じ思いでいるものだが、いつかは二つに分れ三つに分れて党を組んで争う。どちらに組する方が損か得かを胸算用する者さえ出て来るかと思えば、ただ徒らに感情に走って軽蔑し合う。古いものを嘲っていれば先覚者になったつもりで得々とする者もあり、新しいものといえば頭から軽佻浮薄として軽蔑する者も出て来る。こうしてお互いに対立したり軽蔑したりしているうちに、本当に時代遅れの頑固者と新しがりやの軽薄者が生れて来るものだ。これは人間というものの持って生れた弱点であろうなあ……」(『城下の人 新編・石光真清の手記 西南戦争・日清戦争』石光真清〈いしみつ・まきよ〉:石光真人〈いしみつ・まひと〉編)
日本近代史
日本近代史
朝日の記者がサンゴに落書きをつけて、その落書きを見つけたと捏造報道したときには、社長が辞めたけれども、植村記者の捏造は自分が特ダネを取るためにウソをついただけではなくて、義理のお母さんの起こした裁判を有利にするために、紙面を使って意図的なウソを書いたということだから、悪質の度合いも2倍だと思う。彼らの意図的捏造報道により日韓関係が、そして最近では日米関係までもがいかに悪くなったか。その責任は重大だ。(『よくわかる慰安婦問題』西岡力〈にしおか・つとむ〉)
日本近代史/朝日新聞
日本近代史/朝日新聞
1930年代に少年期を過ごした日本人にとって、世界は今とはまったく異なるさまに映じていた。狭い日本列島には閉塞感はなく、日本は台湾と朝鮮の支配者であり、1931年には満州の広大な空間と鉱物物資をわがものとしていた。そして1937年以降は中国沿岸全域が日本に押さえこまれていた。
強い国が弱い国を併合し、なおかつ何の責めも受けないのが普通であった時代のことである。こうした行為はよこしまな不道徳な行為であるとか、世界が植民地時代から移り変わりつつあるなどと考える日本人はほとんどいなかった。私自身、日本が世界を――少なくともアジアを救済しているという誇りを抱きつつ大きくなった。
(『チベット偽装の十年』木村肥佐生〈きむら・ひさお〉:スコット・ベリー編:三浦順子〈みうら・じゅんこ〉訳)
日本近代史/チベット
強い国が弱い国を併合し、なおかつ何の責めも受けないのが普通であった時代のことである。こうした行為はよこしまな不道徳な行為であるとか、世界が植民地時代から移り変わりつつあるなどと考える日本人はほとんどいなかった。私自身、日本が世界を――少なくともアジアを救済しているという誇りを抱きつつ大きくなった。
(『チベット偽装の十年』木村肥佐生〈きむら・ひさお〉:スコット・ベリー編:三浦順子〈みうら・じゅんこ〉訳)
日本近代史/チベット
日本の軍部が武力を使用したのは済南出兵(1927)が最初であり、柳条溝事件=満州事変、以下同じ=(1931)がその次であるが、政治的恐慌というべき、軍部の外交への介入、政党への脅威などは、ロンドン軍縮会議が、そのはじまりであるというのがわたしの見解である。「柳条溝事件以来」というスローガンが戦後定着しているけれども、軍国主義ないしファッショの萌芽は実は柳条溝事件でなく、ロンドン会議であり、むしろ、柳条溝事件はロンドン会議から惹起された政治的パニックの結果といっても過言ではない。これこそ昭和史の新しい見方である。(『軍閥と重臣 新聞記者のみた昭和秘史』岡田益吉)
日本近代史
日本近代史
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