すぐにベルリンへ向かった。寛大な老師は、自分をないがしろにしていた弟子に、惜しみない激励を与えた。ソーニャ(※ソフィア・コワレフスカヤ)の数学へのすさまじい打ち込みが始まった。モスクワへいったん移ってから、今度は娘を連れて再びベルリンへ向かった。夫との仲はすでに冷え切っていた。透明媒体中の光の伝播について研究を始めると同時に、娘をモスクワの友人に預ける。パリとベルリンを往復しながら、師の紹介で知ることとなったフランスの巨匠達、パンカレやエルミートをはじめ、多くの研究仲間と交わる。彼等は一様に、ソーニャの深い知識や鋭い知性、それに加えて「会話のミケランジェロ」とも称された類い稀な話術に魅了されたのだった。
 パリで、学生の身分に不満を覚えながらも、光の屈折に関する数学的研究を順調に進ませていた時、夫コワレフスキーの自殺を知らされた。彼女は衝撃で5日間、意識不明に陥っていたが、6日目に目を覚ますと、ベッドの上で数学公式を書き始めたという。
(『天才の栄光と挫折 数学者列伝藤原正彦

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