検索キーワード「開国」に一致する投稿を関連性の高い順に表示しています。 日付順 すべての投稿を表示
検索キーワード「開国」に一致する投稿を関連性の高い順に表示しています。 日付順 すべての投稿を表示
 開国派もまた攘夷派であったのだ。「つまり、開国は、攘夷のための実力をたくわえる手段に他ならなかった」という上山(春平)氏の意見に、私は同意する。その見地からすれば、攘夷派の志士たちが後に「簡単に」開国派に転向したことも理解できる。彼らは「攘夷派」を捨てたのではなく、それを「開国論」という迂回戦略に発展させたのだ。(『大東亜戦争肯定論林房雄

大東亜戦争日本近代史
 その良い例が幕末における攘夷開国であり、攘夷は閉鎖系で「群れ合いの場」が中心だが、開国は開放系で「出会いの場」への評価に基づき、外に向かって開く拡散型のシステムに属している。だから、最初は攘夷の思想が狂気として荒れ狂ったが、冷静になって将来を展望したことで逆序の理に目覚めて、明治の日本人は文明開化の路線に切り替えた。そして、横井小楠の『国是三論』の富国、強兵、士道から、士道を削り「富国・強兵」を国策の指導理念として採用し、日本の近代化を実現するのに成功した。(『さらば、暴政 自民党政権 負の系譜藤原肇〈ふじわら・はじめ〉)
 その一方で、欧米諸国からの皇室国際化の要請を予測していた皇室は、開国に備えて政治・外交・社会体制まで包含した大規模な国家戦略群をあらかじめ建てていた。それが「堀川(ほりかわ)政略」で、発端は天保(てんぽう)の大飢饉の前後の1830年代と推察される。室町時代依頼、永世親王として代々皇室のウラを支え國體(こくたい)を護ってきた伏見殿の19代貞敬(さだよし)親王と第一皇子・邦家(くにいえ)親王が中心となり、國體参謀衆に命じてこれを建てたというのだ。
 建武(けんむ)の新政にあたり南北朝(落合史観では海洋民族系を南朝、大陸騎馬民族系を北朝と呼ぶ)の合一を図るために建てられた極秘の「大塔(おおとう)政略」に基づき、南朝の大塔護良(もりなが)親王の息子・益仁(ますひと)親王(のち興仁〈おきひと〉親王)が北朝光厳(こうごん)上皇の第一皇子に入り崇光(すこう)天皇となったことで南北朝は実質的に統合された。崇光天皇の皇子・栄仁(よしひと)親王が初代となって始めた伏見殿が、代々大塔宮の血統を伝えることで、「万世一系の皇統」の血統バンクとなったのである。伏見殿が國體天皇となり、伏見殿から出た後花園(ごはなぞの)天皇の末裔が皇室となって代々政体天皇に就いてきたが、「堀川政略」により、皇室の国際化のため、伏見殿が海外事項に専任し、政体天皇が國體天皇になったという。その空いた政体天皇の役職を埋めるため、政体天皇には皇室外から後花園皇統以外の大塔宮の子孫を抜擢することを定めたのだ。
(『逆説の明治維新落合莞爾監修)
 この出会い(※黒船来航、ペリーの副官コンティ堀達之助中島三郎助の会談)は、きわめて象徴的である。最初の対話で発砲交戦を避けることができた。それには日米双方の事情があった。見えざる糸が「戦争」を回避させ、「交渉」へと導いた。やがて接触を重ねるうちに、双方ともに「交渉」の重要性を認識し、それに伴う行動を優先させていく。(『幕末外交と開国』加藤祐三)

日本近代史
 文久期(1861~1864)と言えば、例外なく日本人すべてが尊王であり、攘夷であった。開国派(通商条約容認)であり、公武合体派の代表とも言われたこの時期の薩摩藩であるが、外国人を殺傷した生麦事件を起こしている。この事実は、日本人=攘夷の最たる例であろう。しかもこの段階で、倒幕を唱えていたのはごく一部の尊王志士激派のみに過ぎないのだ。こうして見ると、尊王攘夷 vs. 公武合体という構図は、じつはありえないことをおわかりいただけよう。(『攘夷の幕末史』町田明広)

日本近代史
岸●明治開国のころの写真がよく残っていますが、山っていうのはみんなすかすかですよね。
 昔話なんかでよくいわれますが、おじいさんは山へ木を伐りに行くのではなく、柴を刈りに行くのです。薪にしたり炭にしたりするから柴しかなかった。柴がしょぼしょぼ生えているだけで、でかい木はそもそも無かったわけです。
 それがたかだか50年くらいでこんなになってしまった。1960年前後の燃料革命で薪や炭が使われず、雑木林の伐採・管理が止まったからですね。
(『奇跡の自然 三浦半島小網代の谷を「流域思考」で守る岸由二
 布教インペリアリズムは、不幸な異教徒を力をもって改宗させて救おうとする、人道的な使命感にもなった。自分の文明をおしつけることが、義務だった。日本にきて開国を強要したアメリカ人も、そう考えていた。いまのフランス人のアフリカに対する意見をきくと、この考えがいかに根深いかにおどろかされる。
 説教する人道的な征服者――われわれは、被占領中に、マッカーサー元帥にその俤を感じたものだったが……。
(『剣と十字架 ドイツの旅より竹山道雄
 ペリー来航の意義は、圧倒的な武力による開国の強要だけではなく、また交易の開始でもなかった。政治と経済、文化といったあらゆる面において、日本が近代という巨大なシステムに吸収されるということだったのである。(『近代の拘束、日本の宿命福田和也