信子●観相学についての議論はありますが、「左翼はみな丸メガネをかける」というのもありますね。大江健三郎、坂本龍一、井上ひさしもなぜか丸メガネでした。まあ、これは「観相」ではなく、好みのファッションの問題ですが。
適菜●そもそも本書の企画、そのあたりの話から始まったんですよね。銀座のビストロで剛志さんと信子さんと飲んでいて、左翼の風貌は独特だよねと。丸メガネだと典型的なのがジョン・レノン。久野収もそう。
剛志●なぜ左翼にはハゲが少ないのかとか、若いころポストモダンだった学者が60近くなってもジーンズを穿いているのはなぜだろうとか、岩波の『世界』の表紙を飾っている女性は、どうしてみんな化粧っ気がなくて一重まぶたなんだろうとか。
(『脳・戦争・ナショナリズム 近代的人間観の超克』中野剛志、中野信子、適菜収)
その(『ブリタニカ国際大百科事典』の)人選の折りに、しだいに気づいていったが、いわゆる“左翼”と評されている研究者はリストに挙げないのが編集者たちの暗黙の諒解であった。私が担当している専門分野にもどちらかといえば“左翼”に擬せられる研究者がいないわけでもなかったが、しかしそうした人物は決してこの分野で最高レベルに到達しているとはいい難かった。(『風来記 わが昭和史 1 青春の巻』保阪正康)
大飯原発再稼働反対のピーク時や、あじさい革命をスローガンにし始めた頃になると、首都圏反原発連合に何か不自然なものを感じるようになりました。それぞれの立場や思いでいろいろな人が参加していて、例えば国防からの視点で反原発を訴えている団体もありました。
私は立場に関係なく、ひとつの目標のために力を合わせたかった。しかしそういう人達はその頃から排除されるようになっていったのです。例えば日章旗を出したらダメという感じで、中心メンバーの会議で自分達のカラーに合わない参加者を認めないことが決まっていたんです。
(『さよならパヨク チバレイが見た左翼の実態』千葉麗子)
左翼
私は立場に関係なく、ひとつの目標のために力を合わせたかった。しかしそういう人達はその頃から排除されるようになっていったのです。例えば日章旗を出したらダメという感じで、中心メンバーの会議で自分達のカラーに合わない参加者を認めないことが決まっていたんです。
(『さよならパヨク チバレイが見た左翼の実態』千葉麗子)
左翼
竹山道雄は児童文学の作者である以上に戦後論壇では一大知識人として群を抜く存在感があった。
そんな竹山は左翼陣営からは「危険な思想家」とレッテルを貼られたが、その立場ははっきりしていた。語の根源的な意味における自由主義である。1936(昭和11)年の二・二六事件の後に軍部批判の文章を書くという反軍国主義であり、1940(昭和11)年にナチス・ドイツの非人間性を『思想』誌上で弾劾(だんがい)し、そしてそれと同じように敗戦後は、反米共産主義、反人民主義で一貫した。戦前戦後を通してその反専制主義の立場を変えることはなく、本人にゆらぎはなかった。日本の軍部も、ドイツのヒトラーのナチズムも、ソ連や東ドイツの共産主義体制も、中国のそれも批判した。
(『戦後の精神史』平川祐弘)
そんな竹山は左翼陣営からは「危険な思想家」とレッテルを貼られたが、その立場ははっきりしていた。語の根源的な意味における自由主義である。1936(昭和11)年の二・二六事件の後に軍部批判の文章を書くという反軍国主義であり、1940(昭和11)年にナチス・ドイツの非人間性を『思想』誌上で弾劾(だんがい)し、そしてそれと同じように敗戦後は、反米共産主義、反人民主義で一貫した。戦前戦後を通してその反専制主義の立場を変えることはなく、本人にゆらぎはなかった。日本の軍部も、ドイツのヒトラーのナチズムも、ソ連や東ドイツの共産主義体制も、中国のそれも批判した。
(『戦後の精神史』平川祐弘)
写真家・森山大道氏は20代の若さながら、細江英公の助手として三島の有名な写真集『薔薇刑』の撮影に立ち会い、そのすべてのプリントを焼いたという運命的な経験の持ち主です。
森山氏はこの三島との出会いを回想しながら、三島が亡くなった1970年ころから、日本の見え方が変質していったという、写真家ならではの歴史的直感を述べています。その変質とは、ひと言でいえば、「輪郭がぼやけていく」というものでした。
この「輪郭がぼやけていく」感覚は、左翼運動の退潮で敵が見えなくなったこととも、また、高度経済成長で豊かさ以外を見なくてもよくなったこととも通じあう感覚でしょう。森山氏はそうした状況のなかで、いいようのない不安に襲われ、睡眠薬を常用するようになり、写真家としての活動を休止してしまいます。
(『続・三島由紀夫が死んだ日 あの日は、どうしていまも生々しいのか』中条省平〈ちゅうじょう・しょうへい〉)
三島由紀夫
森山氏はこの三島との出会いを回想しながら、三島が亡くなった1970年ころから、日本の見え方が変質していったという、写真家ならではの歴史的直感を述べています。その変質とは、ひと言でいえば、「輪郭がぼやけていく」というものでした。
この「輪郭がぼやけていく」感覚は、左翼運動の退潮で敵が見えなくなったこととも、また、高度経済成長で豊かさ以外を見なくてもよくなったこととも通じあう感覚でしょう。森山氏はそうした状況のなかで、いいようのない不安に襲われ、睡眠薬を常用するようになり、写真家としての活動を休止してしまいます。
(『続・三島由紀夫が死んだ日 あの日は、どうしていまも生々しいのか』中条省平〈ちゅうじょう・しょうへい〉)
三島由紀夫
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