面白いことにこの孤独という英語 alone はすべてひとつ all one という意味のラテン語、ギリシャ語から来ているのです。外形は孤独であっても、内形である心は全体とひとつにつながっているということで、これは孤立とは違います。(『クリシュナムルティ 人と教え』クリシュナムルティ・センター編)
クリシュナムルティ
クリシュナムルティ
クリシュナムルティ●失礼でなければ、お尋ねしてもいいでしょうか。あなたはなぜ、対比するのですか?(『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ:正田大観、吉田利子訳、大野純一監訳)
ワールポラ・ラーフラ
ワールポラ・ラーフラ
笑いの波が聴衆から起こる。「一緒に笑えるのはよいことです」と彼は話し出した。「冗談に対しても――私たち自身に対しても、笑うのはとてもよいことだ。私たちの心には涙が多すぎる。みじめさが多すぎます」(『キッチン日記 J・クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン:高橋重敏訳)
クリシュナムルティ
クリシュナムルティ
J・クリシュナムルティは、多分、20世紀の典型的な偶像破壊者である。彼は特定のいかなる哲学、宗教、あるいは心理学派との同一化も断固として否定したが、変容を促す彼の洞察と観察は多くの人々、ひいては20世紀それ自体にも深甚なる影響を及ぼした。(『クリシュナムルティとは誰だったのか その内面のミステリー』アリエル・サナト:大野純一、大野龍一訳)
そして監獄の中で自分自身を居心地よくさせることに成功する人のことを私たちは「成功者」と呼び、一方、監獄の中で負ける人のことを「失敗者」と呼ぶのです。が、成功も失敗もともに監獄の壁の内側でのことなのです。(『片隅からの自由 クリシュナムルティに学ぶ』J・クリシュナムルティ:大野純一著編訳)
われわれは、権力者、指導者を賞揚し、尊敬する。なぜならわれわれの中に、権勢と地位への同じ切望、支配し、命令しようとする同じ願望があるからである。(『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 4』J・クリシュナムルティ:大野純一訳)
こういうことを見きわめる用意がありますか? この問題に入りこんでゆきたいと思いますか? ほんとうですか? そうだとすれば、むしろ私にとっては驚きです。なぜならあなたがたは、心理学者や司祭や指導者たちからいつでも教示され、知らされ、何をするのかを告げられてきているからです。常に助けを求め、助けてもらえる新しい方法を見つけているからです。ですからわれわれは、他人の奴隷になったのです。探し求める自由などいっさいなく、心理的に完全に自立することもないのです。(クリシュナムルティ)『クリシュナムルティ・開いた扉』メアリー・ルティエンス:高橋重敏訳
沈黙には多くの性質がある。音と音の間の沈黙、ふたつの調べの間の沈黙があり、また思考と思考の間隙で広がっていく沈黙がある。あるいは田舎の夕暮れに訪れるあの不思議な静寂のうちに、四面に広がっていく沈黙がある。また、どこかの犬の遠吠えや急な斜面を登るときの汽車の汽笛の背後にある沈黙、家中の者がすべて眠りについたときに家の中に生まれる沈黙、さらには真夜中にただひとり目覚め、谷間でほうほうと鳴くふくろうの声を耳にしたときの異様に深々と強まりゆく沈黙。さらにはふくろうの仲間が応え返す前の沈黙がある。あるいは古い廃屋のまわりに漂う沈黙があり、山の持つ沈黙がある。さらには互いに同じものを見、おなじことを感じ、同じことをしたふたりの間に生まれる沈黙がある。(『クリシュナムルティの瞑想録 自由への飛翔』J・クリシュナムルティ:大野純一訳)
あなた――あなたの身体、感情、思考――は、過去の結果です。あなたの身体はたんなるコピーなのです。例えば羨望や怒りなどのどんな感情も、過去の結果なのです。羨望について、それを抑圧したり、それを何かあるいは何らかの行為にしようとするなど、あなたが何をしようと、それもまた過去の結果なのです。そのように、あなたはたんに経験の輪のなかを動いているだけなのです(『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J・クリシュナムルティ)
人は当然ながらすべての信念を疑うべきである。なぜなら精神は、とりわけ信念によって自分自身を欺く傾向があるからである。(『気づきの探究 クリシュナムルティとともに考える』ススナガ・ウェーラペルマ:大野純一訳)
クリシュナムルティ
クリシュナムルティ
火のついた家は向こうにあると、私たちは思うのですが、それはここ、内にあるのです。私たちは最初に自らの家に秩序をもたらさなければならないのです。(『明日が変わるとき クリシュナムルティ最後の講話』J・クリシュナムルティ:小早川詔〈こばやかわ・あきら〉、藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳)
今日の政治は、概念に依拠したある種の普遍的な病であると見なすことができますし、宗教の方は空想と虚構の入り混じった感傷主義であると考えることができます。現実のできごとを観察してみれば、こうしたものはどれも概念を操る思考の仕業であり、毎日のみじめさや人生の混乱・失望を回避するための手段であることがわかるでしょう。(『アートとしての教育 クリシュナムルティ書簡集』J・クリシュナムルティ:小林真行訳)
学校への手紙
学校への手紙
少年はうす汚れていた。衣服は破れ、洗われておらず、そして彼の顔は攻撃的なほど鋭く、もの言いたげだった。誰も彼に笛の吹き方を教えなかったし、また誰もそうしようとはしなかった。彼は自分の力でそれを覚えたのである。そしてその映画音楽がころがり出たとき、その調べの純粋さは途方もないものだった。不思議にも、精神はその純粋さの上に浮かんだ。数歩進んでから、精神は木立を抜け、家々の上を通って海へと向かい続けた。その運動は、時間と空間の中にではなく、純粋さの中にあった。(『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 4』J・クリシュナムルティ:大野純一訳)
われわれの存在のあらゆるレベルに逃避がある。あなたは仕事によって、ある者は飲酒によって、ある者は宗教的儀式によって、ある者は知識によって、ある者は神によって、そしてさらにある者は娯楽に耽ることによって逃避する。あらゆる逃避は同じであり、優れた逃避も劣った逃避もない。神と飲酒は、それらがあるがままのわれわれからの逃避であるかぎり、同じレベルにある。(『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 2』J・クリシュナムルティ:大野純一訳)
真理、または神を見出すためには、信仰も、不信仰もあってはならない。信者は、不信仰者と変わらない。どちらも真理を見出すことはないであろう。(『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 4』J・クリシュナムルティ:大野純一訳)
宗教
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