全体主義の代表的見解ともいうべきフリードリッヒ=ブレゼジンスキーの『全体主義的独裁と専制』による全体主義体制の徴候とは次のようなものである。
(1)首尾一貫した完成したイデオロギー(世界征服を目指す千年王国論)
(2)独裁者の指導による単一大衆政党
(3)物理的・心理的テロルの体系
(4)マスコミの独占
(5)武器の独占
(6)経済の集中管理と指導
(『二・二六事件とその時代 昭和期日本の構造』筒井清忠)
竹山道雄は児童文学の作者である以上に戦後論壇では一大知識人として群を抜く存在感があった。
そんな竹山は左翼陣営からは「危険な思想家」とレッテルを貼られたが、その立場ははっきりしていた。語の根源的な意味における自由主義である。1936(昭和11)年の二・二六事件の後に軍部批判の文章を書くという反軍国主義であり、1940(昭和11)年にナチス・ドイツの非人間性を『思想』誌上で弾劾(だんがい)し、そしてそれと同じように敗戦後は、反米共産主義、反人民主義で一貫した。戦前戦後を通してその反専制主義の立場を変えることはなく、本人にゆらぎはなかった。日本の軍部も、ドイツのヒトラーのナチズムも、ソ連や東ドイツの共産主義体制も、中国のそれも批判した。
(『戦後の精神史』平川祐弘)
そんな竹山は左翼陣営からは「危険な思想家」とレッテルを貼られたが、その立場ははっきりしていた。語の根源的な意味における自由主義である。1936(昭和11)年の二・二六事件の後に軍部批判の文章を書くという反軍国主義であり、1940(昭和11)年にナチス・ドイツの非人間性を『思想』誌上で弾劾(だんがい)し、そしてそれと同じように敗戦後は、反米共産主義、反人民主義で一貫した。戦前戦後を通してその反専制主義の立場を変えることはなく、本人にゆらぎはなかった。日本の軍部も、ドイツのヒトラーのナチズムも、ソ連や東ドイツの共産主義体制も、中国のそれも批判した。
(『戦後の精神史』平川祐弘)
有名なエピソードがある。1936年(昭和11年)の二・二六事件のときだ。神奈川県湯河原町の別荘として借りていた伊藤旅館の別棟にいた牧野伸顕のところに、早朝、反乱軍がなだれ込んできた。反乱軍から逃れ、庭続きの裏山に脱出しようとした彼が、銃殺されそうになったとき、和子さんは祖父を救うためにハンカチを広げて銃口の前に立ちはだかったという。
彼女は聖心女子学院の出身だが、在学中に週刊誌主催のミス日本に選ばれたくらいの美人である。反乱軍兵士は、銃口の前に飛び出して祖父をかばった美女にさぞ驚いたに違いない。孫娘の気迫に気圧(けお)されて、牧野伸顕は命拾いしたといわれている。
(『私を通りすぎたマドンナたち』佐々淳行)
彼女は聖心女子学院の出身だが、在学中に週刊誌主催のミス日本に選ばれたくらいの美人である。反乱軍兵士は、銃口の前に飛び出して祖父をかばった美女にさぞ驚いたに違いない。孫娘の気迫に気圧(けお)されて、牧野伸顕は命拾いしたといわれている。
(『私を通りすぎたマドンナたち』佐々淳行)
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