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 以上、眺めてきたように、チベット問題に関して朝日新聞は一貫して中共側の立場に立ち続けて報道してきたことがお分かり頂けたと思う。占領下ではGHQの顔色を窺いながら媚(こ)び諂(へつら)い、1953年にGHQがいなくなると突如豹変し、一貫して中共を礼賛しチベット大虐殺の真実を伝えるどころか隠蔽(いんぺい)してきた朝日新聞。チベット大虐殺の真実を伝えることを怠ったのみならず、チベットで行われているのは、「民主化」、「解放」であると讃美し、搾取され、残虐な刑に処せられていたチベット人民たちが真に解放されるのは、中共の一部となったときだと嘘を並び(ママ)立ててきた朝日新聞。中共の一部となって、近代化も進み、晴れて文明人としてチベット人は生活できるようになったというプロパガンダを中共政府とともに行ってきたのが朝日新聞という新聞であった。(『チベット大虐殺と朝日新聞 朝日新聞はチベット問題をいかに報道してきたか岩田温〈いわた・あつし〉)
 わたしからすれば、彼らはなにかを――なんでもいいから――創造しようとしてみるべきなのだ。そうしたら、こちらも、彼らの意見に耳を傾けよう。創造しない人々が、創造的な人々の作品を評価するのが間違っているのだ。無からなにかを作りだすこと、なにかをつなぎ合わせて、この世にないまったく新しいものを作り上げること、それこそが尊敬されるべき、困難な仕事なのだ。(『チベットの薔薇』ライオネル・デヴィッドスン:小田川佳子〈おだがわ・よしこ〉訳)
 1930年代に少年期を過ごした日本人にとって、世界は今とはまったく異なるさまに映じていた。狭い日本列島には閉塞感はなく、日本は台湾と朝鮮の支配者であり、1931年には満州の広大な空間と鉱物物資をわがものとしていた。そして1937年以降は中国沿岸全域が日本に押さえこまれていた。
 強い国が弱い国を併合し、なおかつ何の責めも受けないのが普通であった時代のことである。こうした行為はよこしまな不道徳な行為であるとか、世界が植民地時代から移り変わりつつあるなどと考える日本人はほとんどいなかった。私自身、日本が世界を――少なくともアジアを救済しているという誇りを抱きつつ大きくなった。
(『チベット偽装の十年』木村肥佐生〈きむら・ひさお〉:スコット・ベリー編:三浦順子〈みうら・じゅんこ〉訳)

日本近代史チベット
 ある日通訳が、進駐軍の軍服、外套、軍靴を私に示し、「寒いだろうから」と言った。彼はその温かく堅牢な米軍の被服を私に着よというのである。私は、ここに勤務している多数の日本人と同じ姿になる自分を想像して、嘔吐するような反感を覚えた。私は、言下に拒絶した。
「あなたは親切心で言ってくれるのでしょうが、私は、ヒマラヤを、この体でこの二本の足で七度も越えて鍛え上げているのだ。私がこんな姿をしているのは、あなたのそんな親切なめぐみを、待ち望んでいるのとは、まったく意味が違う。私達は戦争には負けた。しかし、私は、精神的には負けてはいないのだ」
(『秘境西域八年の潜行』西川一三)

日本近代史チベット
 しかしそこに政治が介入してきた。
 ジョン・ケネス・ガルブレイス。新任の駐インドアメリカ大使で、ケネディの最も信頼する顧問の一人であり、チベット問題に公然と反対する人物であった。数々の肩書きを持ち、明らかに無視できない相手であった。即ちハーバード大学教授にして、経済学者、作家、テレビコメンテーター、雑誌「フォーチュン」編集委員、そしてケネディ一族と親交がある、といった具合だ。さらに重要なのは、アイゼンハウアー時代に培ってきたパキスタンとの友好関係を犠牲にしてでも、インドとより友好的な関係を結ぶのがアメリカのアジア政策に欠くことのできない必須条件だとするケネディ自身の意向を彼が反映していたという点である。ガルブレイスのち別途計画への反対は、チベットに対する個人的嫌悪感にまで達していた。曰く「チベット人は不愉快で野蛮であり、恐ろしく非衛生的人種だ」とまで決めつけていた。
(『中国はいかにチベットを侵略したか』マイケル・ダナム:山際素男訳)
 チベット問題について学んでいくなかで私は、戦前の日本がチベットのみならずモンゴルやウィグルなどとも浅からぬ関係を構築していたことを知った。それは旧帝国陸軍が極秘で推進していたユーラシア戦略の一環であり、モンゴル、ウィグルの独立を支援して反共親日国家群を樹立し、ソ連の南下を防ぎ、中国共産党との連携を遮断し、東アジアの赤化を阻止するという壮大な構想に基いていた。これを「防共回廊」構想という。(『帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」関岡英之

日本近代史
 歴史という文化は、地中海世界と中国世界だけに、それぞれ独立に発生したものである。本来、歴史のある文明は、地中海文明と中国文明だけである。それ以外の文明に歴史がある場合は、歴史のある文明から分かれて独立した文明の場合か、すでに歴史のある文明に対抗する歴史のない文明が、歴史のある文明から歴史文化を借用した場合だけである。
 たとえば日本文明には、668年の建国の当初から立派な歴史があるが、これは歴史のある中国文明から分かれて独立したものだからである。
 またチベット文明は、歴史のないインド文明から分かれたにもかかわらず、建国の王ソンツェンガンポの治世の635年からあとの毎年の事件を記録した『編年紀』が残っており、立派に歴史がある。これはチベットが、唐帝国の対抗文明であり、唐帝国が歴史のある中国文明だったからである。
 イスラム文明には、最初から歴史という文化要素があるけれども、これは本当はおかしい。アッラーが唯一の全知全能の神で、宇宙の間のあらゆる出来事はアッラーのはかり知れない意志だけによって決定されるとすれば、一つ一つの事件はすべて単独の偶発であり、事件と事件の間の関連を論理によってたどろうなどというのは、アッラーを恐れざる不敬の企てだ、ということになって、歴史の叙述そのものが成り立たなくなってしまう。(中略)
 しかし、もっと大きな理由は、イスラム文明が、歴史のある地中海文明の対抗文明として、ローマ帝国のすぐ隣りに発生したことである。地中海文明の宗教の一つであるユダヤ教は、ムハンマドの生まれた6世紀の時代のアラビア半島にも広がっていた。ムハンマド自身もその影響を受けて、最初はユダヤ教の聖地であるイェルサレムの神殿址に向かって毎日の礼拝を行っていた。
(『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統岡田英弘