「同じ時代の都のおとめだちが、明るい電燈の下で、はなやかに骨牌(カルタ)を切っておることも知らず、……農村の娘だちは、掌(てのひら)から血を流して毎日藁を打っておるのだ」(『北越雪譜』)『』中谷宇吉郎
「人間が生きる」ということは、「好きなものを得るために行動する」「得られないものや邪魔するものはぜんぶ壊す」のいずれかです。我々の日常生活は、この二つのエネルギーに支配されているのです。(『心は病気 役立つ初期仏教法話2アルボムッレ・スマナサーラ

仏教
 当時のタイム誌は「いまだかつて考案されたなかで最も滑稽な跳び方」と書いた。誰もがフォスベリーをばかにして笑ったのは、言うまでもない。一部には、公式の大会ではこの跳び方は認めるべきではないという声すらあった。しかし、フォスベリーはこの「背面跳び」を続け、とうとうオリンピックまで制し、専門家を悔しがらせた。これは、「常識」が恥をかかされたほんの一例にすぎない。(『ビジネス版 悪魔の法則 ポジティブ思考のウソを斬る』ダン・S・ケネディ:池村千秋訳)
 女のかがやかしい外貌は20代のなかばに衰えはじめるのであり、内面の佳妙さあるいは豊麗さをもたぬ人は、内から発する光がないので、そのまま信念の蒙(くら)さにかたむいてゆく。老いてなお明るく美しい人には、窈々(ようよう)たる情とホウホウたる心のありかたがあるにちがいないのである。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 ――もっとも深いところまで行った者だけが、もっとも高いところまで行ける。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 呂不韋(りょふい)は孫氏(※荀子)の、
 ――学は没するに至りてしかるのちに止(や)むべきなり。
 という教えを体現し、死ぬまで学問をつづけた人である。
(『奇貨居くべし宮城谷昌光
「すっかり萎れてしまったな。願いが浅いところにあるからだ。それだけ傷つきやすい。花をみよ。早く咲けば早く散らざるをえない。人目を惹くほど咲き誇れば人に手折られる。人もそうだ。願いやこころざしは、秘すものだ。早くあらわれようとする願いはたいしたものではない。秘蔵せざるをえない重さをもった願いをこころざしという。なんじには、まだ、こころざしがない」(『奇貨居くべし宮城谷昌光
「足が血を吐くほど歩いてみて、はじめて人は真の歩行を獲得できる」(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 インドの社会では宗教に励む人が精神的な修行をして、認識の範囲をものすごく広げてみたのです。(中略)そういう人々が初めて、死後の世界、というよりは過去の世界について語り始めた。それはほとんど自分自身の過去のことなのです。「自分は過去世でこんなふうに生きていました」と。そこで過去世があるのだから、推測によって未来世もあるだろうと言い出したのです。(『死後はどうなるの?アルボムッレ・スマナサーラ

仏教
 裁判で尋問されたとき、私はそういった。前もって考えていたことではなく、首謀者はだれかと聞かれたとき、私はごく自然にそれはホセ・マルティだと答えた。これが真実である。(フィデル・カストロ)『梛子より高く正義をかかげよ ホセ・マルティの思想と生涯』エルミニオ・アルメンドロス
 80万人以上の罪のないルワンダの男たち、女たち、子供たちが情け容赦なく殺されるのにちょうど100日が費やされたが、その間、先進世界は平然と、また明らかに落ち着き払って、黙示録が繰り広げられているのを傍観するか、そうでなければただテレビのチャンネルを変えただけだった。(『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか PKO司令官の手記ロメオ・ダレール:金田耕一訳)
 勇敢な奴らは、例外なく死んでいった。
 まだ生き残っている勇敢な博奕打ちが居たとするなら、そいつはもうすぐ、死ぬ。間違いなく、死ぬ。必ず、死ぬ。
(『賭けるゆえに我あり森巣博
 真実は両者の中間にある。つまり、世界は完全な無意味ではないが、意味のわかる部分は限られている。このため、わたしたちはある方向には行動できるが、他の方向にはどうするべきかまったくわからないのである。(『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』イーヴァル・エクランド:南條郁子訳)
 どんな所に置かれても光る言葉を
 首にかけて置きたい

 何時までたっても色あせない言葉を
 目の底にやきつけて置きたい
 長い長い時間の歴史の上で
 美しい風化を遂げた言葉の清潔さを
 耳に飾って置きたい

(『塔和子 いのちと愛の詩集塔和子

詩歌
 宗教は、われわれの子供たちが合理的な教育を受けられないようにしている。宗教は、われわれが戦争の根本的な原因を取除くことを阻止している。宗教は古い峻烈な罪と罰の教義のかわりに、科学的協力の倫理をわれわれが教えられないようにしている。人類は黄金時代の入口にいるとも言えよう。しかし、もしそうだとするならば、まず第一にその扉を守つている龍を殺す必要がある。この龍の名は宗教である。(『宗教は必要かバートランド・ラッセル:大竹勝訳)

キリスト教科学と宗教