仏陀像の頭髪は、螺髪(らはつ)と呼ばれる無数の螺旋である。その額にある白毫(びゃくごう)もまたひとつの螺旋である。
仏教そのものが、円と螺旋の思想体系と言ってもよい。
現代科学の両極もまた、マクロとミクロの螺旋である。
(『上弦の月を喰べる獅子』夢枕獏)
沈没船内で道に迷うか、なにかとからまったダイバーは、自分の死に向かいあうことになる。ダイバーの遺体が沈没船内で多数発見されている――かわいそうなダイバーは道に迷ったまま、目の見えないまま、なにかに引っかかったまま、身動きできないまま、恐怖のために目と口を大きくひらいていた。とはいえ、これらの危険には、奇妙な真実がつきまとう。その危険じたいがダイバーの命を奪うことはめったにないという事実だ。むしろ、危険に対するダイバーの反応――パニック――が、おそらくは生死を分けるのだろう。(『シャドウ・ダイバー 深海に眠るUボートの謎を解き明かした男たち』ロバート・カーソン:上野元美訳)
人間は、自分の知らないものに動かされているというのがぼくの意見です。人間のなかには「エス」という何やら驚くべき力があって、それが、人間のすること、人間に起こることのすべてを支配しています。「わたしは生きている」という言は、条件つきでしか正しくありません。それは、根本真理の小さな皮相な現象しか言い表していません。人間は、エスによって生かされているのです。これが根本真理です。(『エスの本 無意識の探究』ゲオルク・グロデック:岸田秀、山下公子訳)
光の速さで空間を進むものには、時間に沿って動くための速さが残らない。したがって、光は年をとらない。ビッグバンで生じた光子は、今日でも当時と同じ年齢なのだ。光の速さでは時間は経過しないのである。(『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン:林一、林大訳)
宇宙
宇宙
だいたい人間ちゅうのは、悲しい映画を一緒に見に行くと、泣く場所って決まってるんですね。だから涙腺を刺激するようなつくり方というのは簡単なんです。ところが、笑いというものは、人によってずいぶんとらえ方が違いまして、非常に個人差があるわけですね。(中略)
まあ、どれがいいとか悪いとかいうことではなしに、それぞれ「笑いの尺度」というのは違ってますから、何を滑稽と思うかで、その人の性格がわかると。ですから、結婚しようかなと思う相手とは「ギャグもの」を見に行くことをお勧めします。ほいで、どこで笑うかで、こいつヘンなやっちゃなあとわかります(笑)。同じところで笑えるんであれば、これはほとんど感性、感覚が一緒ですからね、その人と結婚した方がラクです。いいですね、同じところで笑えるというのはものすごく大事なことなんですよ。
(『落語的学問のすゝめ』桂文珍)
まあ、どれがいいとか悪いとかいうことではなしに、それぞれ「笑いの尺度」というのは違ってますから、何を滑稽と思うかで、その人の性格がわかると。ですから、結婚しようかなと思う相手とは「ギャグもの」を見に行くことをお勧めします。ほいで、どこで笑うかで、こいつヘンなやっちゃなあとわかります(笑)。同じところで笑えるんであれば、これはほとんど感性、感覚が一緒ですからね、その人と結婚した方がラクです。いいですね、同じところで笑えるというのはものすごく大事なことなんですよ。
(『落語的学問のすゝめ』桂文珍)
さらにこのような精神科医には、自らの専門性のおおもとである「物語」作成のすべを臨床から転用して、すべての社会事象に説明を与えようとする〈説明強迫〉傾向の強い人々が多い印象を受ける。実はこの〈説明強迫〉もよくない。精神科医がある犯罪者の奇行に説明をつけることにより、本人の独善的行状に社会的容認を与えてしまっている可能性がある。言葉による現象の追認にすぎないと思われるものも多い。わらかないものは説明せず「わからない」と話す勇気も必要ではないか。(『精神科医になる 患者を“わかる”ということ』熊木徹夫)
落合●しかし、皆が皆あなたのように素晴らしい家庭環境とチャンスに恵まれているわけではない。チャンスを全く与えられない者も多いではないか。
セナ●それは違う。皆平等にチャンスは与えられている。この世に生を受けたということ、それ自体が最大のチャンスではないか。
(『狼たちへの伝言 3 21世紀への出撃』落合信彦)
セナ●それは違う。皆平等にチャンスは与えられている。この世に生を受けたということ、それ自体が最大のチャンスではないか。
(『狼たちへの伝言 3 21世紀への出撃』落合信彦)
「憎しみ」は心の核兵器である。爆発すれば社会秩序を吹き飛ばし、世界を戦争と集団殺戮(ジェノサイド)の渦(うず)に引き入れるだろう。「憎しみ」は、人と人との関係を粉々に打ちくだく。かつて愛しあった人びとが憎しみゆえにたがいに背を向け、傷つけあい、はては殺しあいさえする。憎悪の爆発は道徳と寛容の心を一掃して人を残虐な行為に駆りたて、集団と集団を争わせ、とどまるところを知らない戦いに巻きこむ。憎しみは職場にも毒をまき散らす。破壊的な力で無垢(むく)な子供の心をねじまげ、世代から世代へと受け継がれて増殖する。憎しみは健康を冒しもする。心臓を圧迫して血圧を上昇させ、免疫系を停止させ、脳に損傷をあたえる。自己嫌悪というかたちで忍び寄れば、人は自分の短所しか見えなくなり、人生のよろこびを奪われ、ついには鬱病(うつびょう)に陥ってみずから生命さえも絶ちかねない。(『人はなぜ憎むのか』ラッシュ・W・ドージアJr.:桃井緑美子訳)
その一方で、20世紀には、「限界がある」という仰天の帰結が三つ導かれた。現実の世界で私たちが知りうることに、数学の論理を駆使して見出すことができる真理に、そして民主主義を導入して達成できることに、限界があるというのだ。なかでもとりわけ有名なのが、1927年にヴェルナー・ハイゼンベルクによって発見された不確定性原理だろう。それによると、物体の位置と速度を同時に知ることはできず、全知の存在さえ、宇宙に存在する全物体の位置と速度をラプラスに教えることはできない。続く30年代に証明されたクルト・ゲーデルの不完全性定理は、数学上の真理を決めるための論理に不備があることを明らかにした。ゲーデルが不完全性定理を確立した15年ほどのちにはケネス・アローが、投票者が属する社会の選り好みを各投票者の選り好みに基づいて満足に表せるような集計方法がないことを示している。20世紀後半になると、私たちの知る能力や行なう能力の限界を示す帰結が多くの分野で数々導かれたが、この三つが文句なくビッグスリーと言えよう。(『不可能、不確定、不完全 「できない」を証明する数学の力』ジェイムズ・D・スタイン:熊谷玲美、田沢恭子、松井信彦訳)
高橋昌一郎
高橋昌一郎
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