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 国家と資本は、他人が働いた成果を自分のものにする二つの運動に対応している。国家と資本にそれが可能なのは、両者がそれぞれ特定の〈権利〉のうえになりたっているからだ。つまり国家は〈暴力への権利〉のうえに、資本は、生産関係へと変換される〈富への権利〉のうえに。
 ドゥルーズ=ガタリは、人びとから労働の成果を吸いあげることを「捕獲」と呼んでいる。暴力とカネにまつわる二つの権利は、社会において捕獲がなされる二つの軸をなしているのだ。
(『カネと暴力の系譜学』萱野稔人)
 権利=法の生命は闘争である。諸国民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である。(『権利のための闘争』イェーリング:村上淳一訳)
 八百屋にバナナを現金で買いに走るのが、現物取引。現金ではなくツケで買いに走るのが先渡し取引(フォワード取引)、1ヶ月後のバナナ購入を予約して、さらにキャンセル(反対売買)するかも知れないよと声を掛けるのが先物取引、バナナの代金の一部を払いあとは月末にね!と言うのが信用取引、家にあったリンゴを持ち出して、交換してよ!と頼むのがスワップ取引、そして1ヶ月後に買う権利を頂戴!と頼むのがこれから勉強するオプション取引です。蛇足にはなりますが、リンゴとバナナの交換を将来の権利として売買するのがスワプション取引です。(『実戦のためのオプション』田中勝博)

投資
 江戸では、トイレの汚水は下水に流さなかった。すべて溜めていたのだ。その処理権利を購入した者が汚水を汲み取り、農家に売った。意外なほどの利潤が上がったそうだ。つまり江戸時代の日本は、世界初の完全有機・無農薬リサイクル農法を完成させていたのだ。
 一方、生活用水等の通常下水道も、途中、何度も自然柵で濾過(ろか)し、最終的に飲み水と同じくらいの純度で綺麗にして川に返していた。これを取り締まるのに下水奉行までいたわけである。
 同じ時代、欧州の貴族たちは壷で用を足し、壷が一杯になるとそれを窓から道路に捨て、通りに豚を放ち汚物を食べさせるという処理だった。下水や汚物処理の文化さえなかったのだ。そのため、コレラ等の疫病発生が常態化していた。
(『マインドコントロール2 今そこにある情報汚染』池田整治)
【すべての人間は自然法の侵犯者を処罰する権利をもち、自然法の執行者となる】のである。(『完訳 統治二論』ジョン・ロック:加藤節訳)
 貴君の意見には賛成しないが、それを主張する権利は全面的に支持しよう。
          ――イヴリン・ベアトリス・ホール
          『ヴォルテールの友人』(1906年)
(『ゴースト・スナイパー』ジェフリー・ディーヴァー:池田真紀子訳)
 西暦135年にはイギリスも、フランスも、米国も、ポーランドも、ロシアも、ドイツも国家としては存在していなかったのだ! それなのに、ユダヤ国家だけは特別扱いされる!
 20世紀のまっただなかで、こんな時代錯誤を真剣に主張するなんておかしなことだ。2000年近い昔に消滅した国家をどんな権利で再建できるのだろう!!
(『新版 リウスのパレスチナ問題入門』エドワルド・デル・リウス:山崎カヲル訳)

パレスチナ
 この「剽窃事件」は、三角寛〈みすみ・かん〉以外のものがサンカについて語ると、サンカ及び三角寛から抗議を受けることになるということを世に知らしめる契機となった。サンカとの密約について、サンカ用語を使用する権利は、三角寛ただ一人に帰属するということも、この事件によって、ジャーナリストの間の「不文律」となっていったようである。(『サンカと三角寛 消えた漂泊民をめぐる謎』礫川全次)

サンカ
 アンベードカルは厳しく同胞に迫った。「失った権利は、簒奪者に嘆願したり、かれらの良心に訴えたりすることによっては決して取り戻すことはできない。それを可能にするのは容赦ない戦いのみである」と。(『アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール:山際素男訳)
 日本の憲法には「納税は国民の義務」という条文がありまして、例によってお上に従うのが大好きな日本人は、これをありがたく遵守しています。一方、アメリカ合衆国憲法には「議会は税を課し徴収することができる」としかありません。
 欧米諸国において憲法とは、国民の権利と国家の義務を規定したものなのです。日本はまるっきり逆。国民に納税しろと命じるずうずうしい憲法は世界的に見てもまれな例です。
 スペインの憲法には「納税の義務」が記されていますが、税は平等であるべしとか、財産を没収するようなものであってはならぬなど、国家に対する義務も併記されています。日本では納税しないと憲法違反となじられますが、役人が税金を湯水のごとくムダ遣いしても憲法違反にはならず、はなはだ不公平です。
 一方的に国民に納税を要求する取り立て屋のような憲法があるのは、日本・韓国・中国くらいものですから、こんな恥ずかしい憲法はもう、即刻改正しなければいけません。
(『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ)
 あらゆる人間が、建設的で心暖まる話しか話題にしないような、そんな世の中が理想だと考える連中がいるのは仕方がないにしても、すべての人間にそうしたふるまいを強要する権利は誰にもないはずだ。
 言うまでもないことだが、この世の中には、人間がした行為を裁く法律はあっても、人間がアタマの中で考えていることを裁く法律はない。
 ところが、今回の事件を通じて、あなたがた(と、ついに二人称を使いはじめる)がしようとしたことは、ミヤザキ(※宮崎勤)の行為をではなく、ミヤザキの生活姿勢や性格や家庭環境を裁くことであり、彼のアタマの中味を裁くことだった。
 ということはつまり、我々(いっそ、一人称を使うことにしましょう)は、ミヤザキのみならず、人間一般の「孤独」を裁こうとしたということなのだ。
(『安全太郎の夜』小田嶋隆)
 作家のV・S・ナイポールが記しているように、『自伝』のうち250頁が南アフリカに費やされているが、この国の黒人問題についてはほぼ一言も触れていないことは注目に値する。あたかも彼らは存在していなかったかのようである。南アフリカの問題は、白人とインド人の平等認識問題に帰している。当時のガンジーを動機づけていたのは、社会正義そのものというよりは、南アフリカ社会における同郷インド人の権利であった。(『ガンジーの実像』ロベール・ドリエージュ:今枝由郎訳)

ガンディー
 じつはカトリックと靖国神社には深い因縁があるのです。
 第二次世界大戦後、GHQ(連合国最高司令官総司令部)内には、靖国神社を軍国主義の象徴と見なし、焼き払った上に跡地をドッグレース場にしようとした動きがあったそうです。これには賛否両論があり、マッカーサー司令官も答えを出せずにいたようです。そこで、司令官は当時、ローマ教皇庁(ヴァチカン)の臨時駐日代表ブルーノ・ヴィッテル神父に意見を求めました。するとヴィッテル神父は、
「いかなる国も、その国に殉じた兵士に対して、敬意を表す権利と義務があり、それは戦勝国、敗戦国問わず平等である。もし、アメリカ陸軍が靖国神社を焼却したならば、米陸軍の歴史に永久に消すことのできない汚点を刻むことになるだろう」
 と、進言し、司令官は靖国神社焼却中止命令を出したそうです。
(『だから日本は世界から尊敬される』マンリオ・カデロ)
 日本における自動車通行のもっとも特徴的な点も一言にしていえば、歩行者のために存在していた道路に、歩行者の権利を侵害するようなかたちで自動車の通行が許されているという点にある。(『自動車の社会的費用』宇沢弘文)
 貴君の意見には賛成しないが、それを主張する権利は全面的に支持しよう。
   ――イヴリン・ベアトリス・ホール『ヴォルテールの友人』(1906年)

(『ゴースト・スナイパー』ジェフリー・ディーヴァー:池田真紀子訳)