慶応4年(1868)正月3日から4日にかけて戦われた鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いは、幕府、会津の思わぬ惨敗だった。
決定的な敗因は、戦いの最中に将軍徳川慶喜(よしのぶ)と会津藩主松平容保(まつだいらかたもり/1835-93)が大坂から軍艦開陽丸で江戸に逃げ帰ったことだった。
死を賭(と)して戦っているときに最高指揮官が敵前逃亡したことは、稀有(けう)の不祥事であり、その衝撃は大きかった。
(『会津落城 戊辰戦争最大の悲劇』星亮一)
日本近代史
その延長線上に、それでもなぜ戦争は起こるのか、それを研究する立場の人たちがいます。これはリアリズム(現実主義)という立場の人たちです。そのリアリズムの範疇(はんちゅう)に地政学というものもあるわけです。地政学というのは、地理的な概念の上に展開されていく国家の政治軍事戦略を研究する学問で、それぞれの国が何を考えているのか、例えば、国家と国家の、国境線近くには常に活断層と言ってもよい危険が存在する。その活断層はどういう条件のときに活動して戦争をもたらしてきたか、それらを歴史的な具体的事例にもとづいて常に考察し理論的に体系づける、将来を展望する学問です。(『日本人が知らない地政学が教えるこの国の針路』菅沼光弘)
菅沼●アメリカの本当の国防政策はどこで決まるのか。実は、これはペンタゴンではない。実質的には財務省なんです。もっと言えば、財務省の裏にいるウォールストリートが決めるんです。(『NIPPON消滅の前にこれだけは知っておけ! サバイバル・インテリジェンス』菅沼光弘、北芝健、池田整治)
永遠なるものの理念をことばで理解することはできないし、記述することさえ不可能である。だが芸術にはそのことを可能にする。芸術はこの無限なるものを感得できるものにする。絶対的なるものを捉えることのできるものは、信仰と創造行為のみである。(『映像のポエジア 刻印された時間』アンドレイ・タルコフスキー:鴻英良訳)
「天皇陛下が降伏の命令を出されるのだろうから、日本人として従うしかないだろう。しかし安心しなさい。陛下は退位させられるかも知れないが、その場合は摂政を置けばよい。日本は絶対に亡びない。暫くは占領されるだろうが、独立も回復できる。しっかりやりなさい」(『革命家チャンドラ・ボース 祖国解放に燃えた英雄の生涯』稲垣武)
日本近代史/藤原岩市/ガンディー
日本近代史/藤原岩市/ガンディー
「日本軍を指揮した柴(五郎)中佐は、籠城中のどの国の士官よりも有能で経験も豊富であったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。当時、日本人とつき合う欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになったからだ。日本人の勇気、信頼性そして明朗さは、籠城者一同の賞讃の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである」ピーター・フレミング(『北京燃ゆ 義和団事変とモリソン』ウッドハウス暎子)
日本近代史
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もっとも重要なことは、軍閥が、その縁故的人事や内輪の決定を通じて軍内政治を支配しただけでなく、それが正院・内閣の文民政治家や元老などと密接な連絡を保ち、軍外の政治過程に大きな影響を及ぼしたことであろう。周知のごとく軍閥は、雄藩出身の政治家を長とする官僚集団=「藩閥」の一部を構成し、その政治力の裏づけとなった。
政党政治の時代になり、山県有朋〈やまがた・ありとも〉のような藩閥政治家が姿を消した後も、新たなリーダーを求めて、むしろ軍内抗争は激しくなり、それが日本全体の政治を左右した。このように第二次世界大戦以前の日本においては、多くの政治の変動が軍内の抗争と連動して起こっており、他方、軍制は必ずしも純粋に軍事合理的な理由では作られず、何らかの政治目的に従属して操作された可能性があることを忘れてはならない。(大島明子)
(『日本の軍閥 人物・事件でみる藩閥・派閥抗争史』)
政党政治の時代になり、山県有朋〈やまがた・ありとも〉のような藩閥政治家が姿を消した後も、新たなリーダーを求めて、むしろ軍内抗争は激しくなり、それが日本全体の政治を左右した。このように第二次世界大戦以前の日本においては、多くの政治の変動が軍内の抗争と連動して起こっており、他方、軍制は必ずしも純粋に軍事合理的な理由では作られず、何らかの政治目的に従属して操作された可能性があることを忘れてはならない。(大島明子)
(『日本の軍閥 人物・事件でみる藩閥・派閥抗争史』)
美子●(藤原)咲平さんはお天気ばかりではなく、色々なエピソードがあるそうね。
正彦●戦争中、陸軍に協力して風船爆弾を作った。千葉県や茨城県の海岸から、1万発ほどの風船爆弾を、時速100キロにも及ぶジェット気流に乗せて飛ばしたそうだ。この気流の厚さはたった数キロなので、直径10メートルの風船が昼と夜の気温差などにより、この帯から出ないような精巧な工夫をしたんだよ。風雨に打たれても大丈夫なように、和紙に渋柿でコーティングしてね。1割ほどはアメリカまで届いて爆発したらしい。
(『藤原正彦、美子のぶらり歴史散歩』藤原正彦、藤原美子)
正彦●戦争中、陸軍に協力して風船爆弾を作った。千葉県や茨城県の海岸から、1万発ほどの風船爆弾を、時速100キロにも及ぶジェット気流に乗せて飛ばしたそうだ。この気流の厚さはたった数キロなので、直径10メートルの風船が昼と夜の気温差などにより、この帯から出ないような精巧な工夫をしたんだよ。風雨に打たれても大丈夫なように、和紙に渋柿でコーティングしてね。1割ほどはアメリカまで届いて爆発したらしい。
(『藤原正彦、美子のぶらり歴史散歩』藤原正彦、藤原美子)
「だから、おまえは消えてしまってはだめだ。だからこそ、おまえはこれを乗り越えて、戻ってきて、元気になってくれ。おまえの人生がバラの花の上で踊るような楽しいものではないことは知っている。おまえが人生を粗末に扱っていることも知っている。まるで自分などなんの価値もないというように。だがそうではない。そう思うのは正しくないんだ」(『緑衣の女』アーナルデュル・インドリダソン:柳沢由実子訳)
「演歌」という語が1960年代(むしろ昭和40年代というほうが正確でしょう)に音楽産業の中で一つのジャンルとみなされてゆく過程と、それが「真正な日本文化」として高い評価を得てゆく過程は相関しています。というよりむしろ、ある種の知的な操作を通じて「演歌」というものが「日本の心」を歌う真正な音楽ジャンルとして新たに創り出されたのです。(『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』輪島祐介)
音楽
音楽
モリソンが日本を訪問し、桂太郎首相の公邸を訪れた際、首相はモリソンの籠城記に触れ「日本を世界に知ってもらうのに大きく役立ちました」と礼を述べたのに対して、「……私は、柴中佐指揮下の日本兵の働きを、ただありのままに記録し発表しただけなのですから」とモリソンは応(ママ)えたという。(『日本人の底力 陸軍大将・柴五郎の生涯から』小山矩子)
柴五郎
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