わたしが大切にしてきた教義も信仰も、彼らの文化の文脈では的外れもいいところだった。ピダハンからすればたんなる迷信であり、それがわたしの目にもまた、日増しに迷信に思えるようになっていた。(『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』ダニエル・L・エヴェレット:屋代通子訳)
キリスト教
キリスト教
真に賢い者は、迷信が愚かであろうと必ずしも目くじらを立てない。文句をつけずにいられなくなるのは、別種の迷信に取り憑かれた者と決まっている。(『新訳 フランス革命の省察 「保守主義の父」かく語りき』エドマンド・バーク:佐藤健志訳)
私たちはあい変わらず以前と同じものを持ち、同じ搾取、同じ司祭、同じ組織宗教、同じ迷信、そして同じ階級闘争をかかえています。で、これらは私たちに自由を与えたでしょうか?(『自由とは何か』J・クリシュナムルティ:大野純一訳)
こうして、賭けに勝ったときはそれを額面どおりに受け入れる一方、賭けに負けたときには、その理由を巧妙に見つけて説明づけてしまうことにより、ギャンブラーは、自分の賭けの勝ち負けの記録を個人的に書き換えてしまうのである。つまり、賭けの負けは、「負け」としてではなく、「勝てたはずのもの」として記録されることになる。(『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ:守一雄、守秀子訳)
認知科学/科学と宗教
認知科学/科学と宗教
もっと一般的に言えば、私たちは、自分の好む結論と自分が嫌う結論とに別々の評価基準を用いがちだということである。自分が信じたいと欲している仮説に対しては、仮説に反しない事例を捜してみるだけである。これは、多くの情報が曖昧で多義的な性質を持っていることを考えれば、比較的達成されやすい基準である。これに対し、信じたくない仮説に対しては、そうした忌まわしい結論にどうしてもならざるをえないというような証拠を捜すことになる。これは、ずっと達成が困難な基準である。言い替えれば、信じたい仮説については「この仮説を信じても良いか」と自問するのに対し、信じたくない仮説については「この仮説を信じなければならないか」と自問しているのである。こうした二つの質問に肯定的に答えるために必要な証拠は、まったく違ったものである。それでも、私たちは往々にしてこうしたやり方で質問を形作り、客観的な基準で判断を下しているつもりのまま、自分が信じたいことがらを正しいと信じることにまんまと成功しているのである。(『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ:守一雄、守秀子訳)
認知科学/科学と宗教
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私たちは、自分の信じる考えに反するような情報を遠ざけることが多いため、自己の信念を支持する議論や証拠ばかりを偏って取り入れている。(『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ:守一雄、守秀子訳)
認知科学/科学と宗教
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ロバート・マートンの言葉を借りれば、人々がそうした信念を持つのは「自分自身の体験からこう結論せざるを得ない」と考えるからである。誤った信念は決して非合理性が生じるのではなく、合理性の欠陥から生じるのである。(『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ:守一雄、守秀子訳)
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