1868年7月31日付ビスマルク宛ブラント書翰
書翰の内容であるが、会津・庄内両藩が、ブラントに対して、蝦夷地もしくは日本の西海岸にある領地をプロイセンに売却したいと内密に申し入れてきたと言うものである。
(『戊辰戦争の史料学』箱石大編)
戊辰戦争
春介は去年の9月に京都を襲ったあの狂騒を憶(おも)いだしながら鴨川の流れを眺めつづけた。ええじゃないかの馬鹿騒ぎは東国からはじまったとはあのときも知っていた。ただそれだけだった。あれは260年以上つづいた幕藩体制の終わりを示す唄と踊りだったのだろうか? だとしたら、だれがそんな託宣を? 徳川慶喜が大政奉還を上表したのはええじゃないかの狂騒の1カ月後なのだ。(『新・雨月 戊辰戦役朧夜話』船戸与一)
戊辰戦争
戊辰戦争
戊辰戦争が外国の二大勢力による代理戦争という性格を色濃く持っていたことは容易に想像がつきます。実際、政権交代を目指す薩長勢力にはイギリスが、政権維持を目論む幕府勢力にはフランスが、潤沢な資金を供給していました。(『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人)
支配
支配
皆があっと驚いたのは砲術師範の娘、山本八重子の出で立ちだった。着物も袴(はかま)もすべて男装し、麻の草履をはき、両刀をたばさみ、元込め7連発銃を肩にかついで城に入ってきた。弟の三郎が鳥羽伏見の戦いで戦死しており、弟の仇(かたき)をとらねばならない。命の限り戦う覚悟だった。八重子はすぐに城壁に駆けのぼり、7連発銃で敵兵を狙い撃った。(『偽りの明治維新 会津戊辰戦争の真実』星亮一)
会津/日本近代史
会津/日本近代史
慶応4年(1868)正月3日から4日にかけて戦われた鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いは、幕府、会津の思わぬ惨敗だった。
決定的な敗因は、戦いの最中に将軍徳川慶喜(よしのぶ)と会津藩主松平容保(まつだいらかたもり/1835-93)が大坂から軍艦開陽丸で江戸に逃げ帰ったことだった。
死を賭(と)して戦っているときに最高指揮官が敵前逃亡したことは、稀有(けう)の不祥事であり、その衝撃は大きかった。
(『会津落城 戊辰戦争最大の悲劇』星亮一)
日本近代史
決定的な敗因は、戦いの最中に将軍徳川慶喜(よしのぶ)と会津藩主松平容保(まつだいらかたもり/1835-93)が大坂から軍艦開陽丸で江戸に逃げ帰ったことだった。
死を賭(と)して戦っているときに最高指揮官が敵前逃亡したことは、稀有(けう)の不祥事であり、その衝撃は大きかった。
(『会津落城 戊辰戦争最大の悲劇』星亮一)
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