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 だが、今にして思えば三木のアクの強さは女に好かれる体(てい)のものではなかった。彼は醜男のゆえに若い時から失恋していたのではなく、ある女にはかならず振られる素質を持っていた人なのだ。これは大雑把(おおざっぱ)な言い方だが、異常に熾烈(しれつ)な性慾や不潔な行為を平気で人前で語るごとく、彼には微妙さが欠けて、奇怪さが目立つ男なのだ。彼は青年時代パスカルを研究していたが、その著作の中でもパスカルの妖怪性というか、人間化物論を引用しつつ、彼もまたこの論を深く広く展開している件(くだ)りにはなはだ興味を覚え私の脳裡にも忘れずに残っていたものだ。私はここに及んで彼自身妖怪性を顕著(けんちょ)に持っていることに、私ははたと思い当った。(「三木清における人間の研究」今日出海)『日本文学全集59 今東光 今日出海』今東光、今日出海

三木清
 彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃(たお)れてもなお幸福である。(『人生論ノート』三木清)
 機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人ではない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。(『人生論ノート』三木清)
 幸福は人格である。ひとが外套(がいとう)を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。(『人生論ノート』三木清)
 幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。(『人生論ノート』三木清)