検索キーワード「エドワード・O・ウィルソン」に一致する投稿を関連性の高い順に表示しています。 日付順 すべての投稿を表示
検索キーワード「エドワード・O・ウィルソン」に一致する投稿を関連性の高い順に表示しています。 日付順 すべての投稿を表示
 フランスの政治批評家、アラン・ペールフィットは、かつて毛沢東を評価して次のように述べたことがある。“中国人民は、毛沢東という人物を介して実は彼ら自身への自己愛を享受しているのだ。毛沢東が、中国人民を通して、実は自分自身を愛してきたのだとしても、無理はないというべきである”。かくして、イデオロギーさえもが遺伝子という隠れた主人には頭を下げているのである。この上なく高貴な諸々の衝動も、詳しく調べてゆくと、実は生物学的行為に姿を変えてしまうもののようである。(『人間の本性について』エドワード・O・ウィルソン:岸由二訳)
 これに対してもう一つ、「芯の柔らかい」利他主義 soft-core altruism と呼ぶべきものがあり、こちらは本質的には利己的な行為である。この場合、「利他的行為者」は、社会が、彼自身あるいはそのごく近縁な親族に、お返しをしてくれることを期待しているからである。彼の善行は損得計算に基づいており、この計算は、しばしば完全に意識的な形で実行されている。彼は、うんざりする程複雑な、各種の社会的拘束や社会的要請をうまく活用しながら、あの手この手を行使するのである。
(『人間の本性について』エドワード・O・ウィルソン:岸由二訳)
 例を三つ挙げておく。(1)集団が貧しいほど、その代償の一形態として、集団ナルシズムを使う傾向が強い。(2)集団が大きいほど、それと同一化することによって個人の得ることのできるナルシスチックな満足は低下し、集団のきずなは弱まり、さらにまた、個人がその集団内の下位集団に同一化してしまう傾向が強くなる。(3)国家の一部分にとどまっている際には均質なように見えるある地域に、実は何らかの形の小集団が既に存在しているとすれば、仮にその地域が独立してしまうと、もはやかつての均質性は維持できなくなる。独立によって政治的境界が一段せばめられたことに反応して、当該地域の人々は、さらにもう一段下位の集団に、自己同一化しようとするからである。
 以上を要約すると次のように言える。すなわち人間にみられる「芯の柔らかい」利他主義には、強烈な情緒と同時に、忠誠関係形成の変幻自在性という特徴が備わっているのである。人間は、社会的道徳を所持するという点では常に一貫しているのだが、その道徳を誰に適用するかという件に関しては、この上なく移り気な存在なのである。絶対不変と信じられている道徳的規則に対して強い情緒的な訴えを行ないながら、同時にいとも簡単に同盟関係を形成し、破棄し、そしてまた別の相手と結び直すという事実の中にこそ、人間の社会性の、たぐいまれな性格があるのである。おそらく氷河期以来ずっと同じだったのであろうが、今日においても、仲間集団とよそもの集団の区別は大変重要である。
 しかし、この両者を分かつ境界線は簡単にあちこちへ移動してしまう。プロスポーツは、このような基本的現象がいまも消滅せずに我々につきまとっていることを土台にして栄えているのだ。
(『人間の本性について』エドワード・O・ウィルソン:岸由二訳)