加村一馬さん、57歳。昭和21年8月31日、群馬県の大間々町で生まれた。8人きょうだいの4男坊だった。両親のたび重なる折檻に耐え切れず、13歳で家出をし、後を追ってきた飼い犬のシロと足尾鉱山で獣や山菜を採って空腹を満たしながら生きる生活を選んだ。以来43年間、栃木、新潟、福島、群馬、山梨の山中などを転々としてきた。人里離れた山の洞窟で、ときには川っぺりで、ときには町でホームレスをしながら人とかかわることを避けて生き抜いてきた。(『洞窟オジさん』加村一馬〈かむら・かずま〉)
 公明党が調査・研究費を毎年支出し続けている謎の調査会社がある。東京都新宿区の「JTC」なる会社がそれだ。ただ、政治資金収支報告書から分かるのはそれくらいで、インターネット上にホームページは見当たらず、「104」に訊いても電話番号が分からない。支出が始まったのは2006年7月28日。多い年には総額7463万円余りにも上る。それまで数百万円程度だった公明党の調査・研究費はJTVとの取引開始で激増した。(高橋篤史)『池田大作と暴力団西岡研介、乙骨正生〈おっこつ・まさお〉、森功、山田直樹、他

創価学会
 距離に対する制限時間は次の通り。

・200km:13.5時間
・300km:20時間
・400km:27時間
・600km:40時間
・1000km:75時間
・1200km:90時間

(『ブルベのすべて』鈴木裕和)

自転車
 その昔ツール・ド・フランスは、約2500キロを6ステージで走ったという。コースは未舗装がほとんどで、自転車が壊れても自分で修理しないとペナルティを取られた。レースは徹夜で行なわれ、変速機も禁止だった。1日400キロ以上の道のりは、トップの選手でさえ15時間以上かかり、平均速度こそ違うが、その過酷さは想像しがたい。しかし、この信じがたい距離を信じがたい状況で走り切ることを実現させたのは自転車なのだ。その情熱は時代を超えて語り継がれ、より遠くへ、より速く走るために生まれたのがロードバイクだ。(『ロードバイクの科学 明解にして実用! そうだったのか!理屈がわかれば、ロードバイクはさらに面白い』ふじいのりあき)
 好きなタイプの男だ。服に頓着していない。体裁にこだわりすぎる連中は野心家に見えるが、空疎でもある。その男は話すとき、迫りくるものを見きわめようとするかのような遠い目をする。(『容疑者マイケル・ロボサム:越前敏弥〈えちぜん・としや〉訳)
 よし、つづけよう。15、18、21。
 速くてもよいところは速く、100万分の1インチ刻みで知りたいところはゆっくりと、ダイヤルをまわしていく。後ろでマンハッタンがそわそわと体を動かす気配がする。ぼくが片手をあげると、また静かになった。
 24。27。そう。ここだ。
 どうしてわかるかって?
 わかるからわかる。短いときは短い。ただそう感じる。
 実のところ、感覚を超えた何かかもしれない。硬い金属の小片が前回よりも髪の毛ひと筋ぶんだけ早く切れこみの部分にふれると、ぼくはそれを感じ、聞き、心で見ることができる。
(『解錠師』スティーヴ・ハミルトン:越前敏弥〈えちぜん・としや〉訳)
 ここで、はっきりいえることは、【場】、すなわち会社とか大学とかいう【枠】が、社会的に集団構成、集団認識に大きな役割をもっているということであって、個人のもつ資格自体は第二の問題となってくるということである。
 この集団認識のあり方は、日本人が自分の属する職場、会社とか官庁、学校などを「ウチの」、相手のそれを「オタクの」などという表現を使うことにもあらわれている。
(『タテ社会の人間関係』中根千枝〈なかね・ちえ〉)
 イマジネーションというのは、女の子の空想のことではない。アイディアとは、便所の中で思いつくというような、無責任なものではない。「死中に活を得る」、状況の変化に応じて飛躍と転換ができる精神能力のことである。(『勝者の条件会田雄次〈あいだ・ゆうじ〉)
 憲法学者は、日本社会において絶大な権力を誇っている。憲法学者の書いた基本書を信奉するのでなければ、司法試験に受からない。それどころか公務員試験ですら通らない。学界のみならず、法曹界、官僚機構、そして政界にも絶大な影響力を誇るのが憲法学者である。
 しかもその憲法学者たちのコミュニティは、他の学科と比べても際立って東大法学部を頂点とするピラミッド型の権力構造が顕著だ。たとえば2015年安保法制をめぐっては、多くの国際政治学者や国際法学者が合憲と考えた。その一方で、多数の憲法学者が違憲論を展開したが、中心的な役割を担ったのは東大法学部出身の憲法学者たちであった。違憲とは言えない、という立場をとった少数の憲法学者は、ことごとく非東大系の憲法学者であった。
(『ほんとうの憲法 戦後日本憲法学批判』篠田英朗〈しのだ・ひであき〉)
 どれほど巨万の富を築いても「歴史」を買うことはできない。つまり、「歴史」は価値なのだ。その歴史が育むものが「文化や伝統」である。【希少性こそが最も価値を創造する要素であり、唯一無二には高いバリューがある。】
 現在、世界に王室は27しかない。
 その中で一番古い君主こそが日本の天皇である。日本はキングではなくエンペラーを持つ唯一の国。
(『アンダー・プロトコル 政財暴一体で600億円稼いだ男の錬金哲学渡邉哲也監修、猫組長)
 現代人に“なんば”を教えようとしたときに、もっともスムーズに覚えてもらう方法は、下駄を履き、腕を組んで歩かせることです。下駄をお持ちのかたはぜひやってみてください。自然とつま先着地になり、小股で肩を振って歩く感じになります。反面、腰の位置は上下動せず、水平に移動します。このときに、下駄の前の歯から前の縁へと体重が移動し、カタンと音が出ます。これを“下駄の返り”といいます。これが下駄の真骨頂です。つまり、下駄の返りを利用することで、オートマティックにつぎからつぎへと足が出てきます。こうなると、もはや“中臀筋”と“腸腰筋”といった“インナーマッスル”だけで歩くことが可能になります。「下駄は長歩きのための履物」といわれる所以です。(『オトナになってからロードバイクをはじめた人が速く走れるようになるために攻略すべき3つの局面』エンゾ早川)
 じゃあ、どうするか。整備をきっちりやるしかない。基本的に納車されたばかりなら、走っている最中にブレーキが外れたり、ハンドルがズレるようなことはない。でも、定期的にメンテナンスをしなければ、ブレーキパッドは焼き付きを起こして制動力が落ち、インナーワイヤーが伸びて変速が甘くなる。タイヤのトレッドは紫外線でひぎ割れ、チェーンも摩耗する。どんなに大事にしていても自転車は傷みます。そうしたロードバイクを生き返らせるには、しっかりとしたメンテナンスのできるショップを探して、工賃を払うしかない。(『ロード乗りこなすならもっと業界一の自転車バカに訊け!』菊地武洋)
 トレーニングの結果、心臓肥大が起きてたくさんの血液を送り出せるようになり、脈拍は少なくなる。1990年代にツール・ド・フランスで5連勝したスペインのインデュライン選手の脈拍は30以下だったので有名だ。(『大人のための自転車入門』丹羽隆志、中村博司)

自転車
 そもそも車検を通すだけで何十万円もかかるという。それなら自転車を買ったほうがずっとマシだ。いざとなればレンタカーだってある。第一、横浜という電車やバスの交通網が整備されている都市で、クルマは必需品ではないだろう。
 何よりクルマを使わないという生活スタイルは、「自転車乗り」としては説得力がある。
 そんなわけで、クルマを売ってしまったのだ。08年の11月、本格的に自転車を始めて4年目のことだった。
(『気がつけば100km走ってた 二代目自転車名人鶴見辰吾の自転車本』鶴見辰吾)
【金は金利を生まない。】
 この主張は正しい。そして、これは金を【擁護】するもっとも強力な主張のひとつである。
 金は金利やリターンを生まない。生むことになっていないからだ。金は貨幣であり、貨幣はリスクがないので金利を生まない。貨幣は巷間手段や価値の貯蔵手段や価値の尺度になりうるが、真の貨幣はリスク資産【ではない】。
 単純だがわかりにくいこの点を説明するために、1ドル紙幣を例にとってみよう。1ドル札は貨幣か? イエス。1ドル札は金利を生むか? ノー。
 その1ドル札を銀行に預ければ金利が生まれる。だが、その場合、それはもう貨幣ではない。銀行預金である(FRBは銀行預金を「マネーサプライ」に含まれるとしている。それはFRBがその特異な貨幣幻想を支えることを業務としているからだ)。
 銀行預金は貨幣ではない。それは銀行の無担保の負債である。
(『金価格は6倍になる いますぐ金(ゴールド)を買いなさいジェームズ・リカーズ:藤井清美訳)
甲野●その点、昔よりは改良されてきているようですが、現代の筋力トレーニングは、まだまだ部分的な筋肉に負荷をかけるトレーニングに時間を割いているようですね。
 そして、なまじ部分の筋力が強くなってしまうと、それに頼りますから、骨格を基盤として発揮される力がどういうものかが、どんどん分からなくなってきてしまいますね。
(『ヒモトレ革命 繫がるカラダ動けるカラダ小関勲〈こせき・いさお〉、甲野善紀
「最初にクラッチを切って、駆動が切れたら急いで、力まかせに、突き当たりまでレバーを動かす。そういう操作だと、回転の同調がちゃんと済んでいないうちに無理やり次のギアへ入れてしまう可能性があります」
――で、ガリッと音が出たりして。
「ということは、ギアボックスの内部機構に無用な負担をかける運転になりがちです」
(『四輪の書國政久郎〈くにまつ・ひさお〉、森慶太)
 畜生にも劣る苦しい生活に耐え、心の葛藤と戦いながら月日は流れたが、待望の友軍は再び私たちの前には姿を現わさなかった。潜在する友軍も敵中のこととて連絡の手段もなく、目途空しく病魔に斃れたか、あるいは敵の捜索の目を逃れ得なかったか、その後、何ら消息を得ることもできず、昭和29年9*月、私たちはオランダ官憲の手に収容され、はじめて祖国の敗戦を知った。(『私は魔境に生きた 終戦も知らずニューギニアの山奥で原始生活十年』島田覚夫〈しまだ・かくお〉)

小野田寛郎