暴力とは一時の感情において、もしくは自分の利益のみを考慮して、他者の精神や身体を傷つける行為であり、その暴力を抑止して平和と共存を作り出すものが理性である。理性は感情や欲望の激発を押さえ、自分の行動を首尾一貫させ、自然を合理的に制御して、人生の長期的な利益を実現させる。それと同時に理性は、個々人の無反省な利益追求を抑制し、人々のあいだに共存の枠組みを作り上げ、社会全体に長期的な利益をもたらす。理性と暴力の関係とはこのようなものである。(『理性の暴力 日本社会の病理学』古賀徹)
 しかし、天皇を「玉」と呼び、どこまでも政争の具として利用しておきながら、また、イギリスの支援を受けながら、「尊皇攘夷」を喚(わめ)き続けた倒幕勢力とは、「官」を名乗りはしているがその実態は「賊」ではなかったか。即ち「官賊」と呼ぶべきものではなかったか。この言葉は、大義なき戦を仕掛けられた会津人たちが、文字通り必死の防衛戦を繰り広げたその時に、実際に使った表現でもある。(『官賊と幕臣たち 列強の日本侵略を防いだ徳川テクノクラート原田伊織
 日本人は山水庭園に関する世界一の造園家です。私たち西洋人は「絨毯(じゅうたん)式造園美をよし」とするいまだ未熟な世界にいる自分に気づきます。日本の天才は1ヤード[90センチ]角でも、1000フィート[300メートル]角の広さでも自由自在に植物を育て仕上げることができます。この国の庭師は、フランスのメイドや英国の四輪馬車御者と同様、今や米国の公共施設には欠かせない職業として重んじられています。自然を愛し花を崇拝した先祖の血筋を引く気高い日本版アダム[人類の祖]の同業集団は、生長する植物への深い愛情や、米国人には理解できない専門能力を受け継いできました。そしてこの国の農業はすべて芸術的で、ほとんど魔術的な庭造りをしています。(『シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー』エリザ・R・シドモア:外崎克久訳)

日本近代史
 毛沢東(マオツォートン)――世界人口の4分の1を占める中国人民を数十年にわたって絶対的に支配し、20世紀指導者の誰よりも多い7000万余という数の国民を平時において死に追いやった人物――は、1893年12月26日、中国の中央部湖南(フーチン)省のゆるやかな丘陵に囲まれた韶山冲(村)で小作農として生まれた。(『真説 毛沢東 誰も知らなかった実像』ユン・チアン、ジョン・ハリデイ:土屋京子訳)
【日本は歴史上、民衆からの突き上げで革命が起きたことは一度もない】。ということは、民衆がそこまで強い不満を持ったことはない、つまりは、いつの時代でも税制はそれなりによくできていたものと思われる。それは、古代日本の税制についても言えることだ。(『お金の流れで読む日本の歴史 元国税調査官が「古代~現代史」にガサ入れ大村大次郎
 必要とあらばすぐに打てるよう常に心の準備をしておくべきだ。躊躇はない。必要なら打つとすでに決めているのだから。「攻撃的になれ」「緊張していろ」という意味ではない。単に心の準備をしておくだけだ。ある意味冷淡でなければならない。一筋縄では行きそうにない相手には「話し合いもできるが、打つべき理由があれば打つ」という覚悟を持つ。そうすると不思議なことに争いになりにくい。体のぶつかり合いになったらそれで良い。受け入れることが安全への鍵となる。そして冷淡な態度を保ちながらも、あまり強く打ちすぎないように訓練するのが大切だ。相手をストップさせるために打つだけだ。それが相手を打つための最初の準備である。相手を止める目的で打つ。不能にするまで打ってはならない。その気持ちは心に閉(ママ)まっておく。(ヴラディミア・ヴァシリエフ)
(『ロシア武術 自他を守り、心身を開発する打撃アート システマを極めるストライク!』ヴラディミア・ヴァシリエフ、スコット・メレディス:大谷桂子訳)

システマ
 この北清(ほくしん)事変において、欧米列強は日本軍の規律正しさに感嘆(かんたん)した。とりわけ彼らを驚かせたのは、日本軍だけが占領地域において略奪(りゃくだつ)行為を行わなかったという事実であった。北京でも上海でも連合軍は大規模な略奪を行ったが、日本軍だけは任務終了後ただちに帰国した。
 救援軍の到着まで、北京の公使館区域が持ちこたえたのも日本人の活躍が大きかった。11ヵ国の公使館員を中心につくられた義勇軍(ぎゆうぐん)の中で、日本人義勇兵は柴五郎(しばごろう)中佐の指揮の下(もと)、最も勇敢にして見事な戦いぶりをみせた。事件を取材して『北京籠城』(ぺきんろうじょう)を書いたピーター・フレミングは、「柴中佐は、籠城中のどの士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞讃(しょうさん)の的になった」と書いている。列国の外交官やマスコミは日本軍の模範的行動を見て印象を一変させ、「同盟相手として信ずるに足りる国である」という親日的感情を抱いた。
(『読む年表 日本の歴史渡部昇一
 1946年5月から48年11月12日の裁判終了までの約2年半の間、46年5月17日着任依頼、判事の勉強ぶりは、万人のひとしく認めるところであった。この間、公開法廷のあったのは423日であるが、宿舎の帝国ホテルと市ヶ谷台の法定とを往復するほかは、いっさいの娯楽を求めず、着任2ヵ月にして他の同僚判事との交際も断ち、ホテルに閉じこもり、膨大な証拠書類や、参考資料ととり組んだ。その精進と識見と学識は、敗戦日本人に深い感銘を与えた。(『パル判決書』東京裁判研究会)

パール判事東京裁判
 一方、当事者がほとんど鬼籍に入り、中東軍事介入泥沼化で厭戦気分が広がったこともあって、欧州戦線で、ドイツを東側から攻めたソ連兵が、略奪と強姦を繰り返したのに対し、西側から攻めた米兵は、解放者として歓迎され、規律正しく行動したという、従来の第二次大戦「正史」も見直され始めた。ソ連軍同様、米軍も略奪に加え、ドイツ人女性を強姦しながら進軍していたことなど、これまで米国でタブーとされてきた、米兵の狼藉(ろうぜき)ぶりを明らかにする書籍が、次々と刊行されたのだ。(『日本人が知らない最先端の「世界史」福井義高
 増税につぐ増税、「失業者」の増大、マッチや砂糖すら配給(切符制)、……と全国民が一斉に「貧困者」への転落を強要された。それが日中戦争の結末であった。「ぜいたくは敵だ!」の立て看板が銀座など東京に初めて立てられたのは、1940年8月1日であった。婦人のパーマネントも禁止され、ネオンサインも廃止となり、ダンスホールも閉鎖となった。
 このように、日本中が暗く貧しくなり、経済的にも破綻寸前にまでなったが、それは1941年12月のパール・ハーバー奇襲に始まる超大国の米英を相手の戦争によるのではなく、貧弱な兵器や未熟な軍隊の軍事「後進国」にすぎない中国を対手(あいて)とする戦争によってであった。日中戦争の不可解さは実はここにある。これこそはまた、表面上は「無目的」にみえる日中戦争にかけた近衛文麿らの“秘められた戦争目的”をあぶり出す鍵(かぎ)でもある。
(『近衛文麿の戦争責任 大東亜戦争のたった一つの真実』中川八洋)

大東亜戦争
 彼と話をしたイスラム教徒は「ラーマクリシュナはイスラム教の聖者だ」と言う。クリスチャンは、「ラーマクリシュナはキリスト教の聖人だ」と言う。ヒンドゥー教のなかの各派の信者たちはみな、「ラーマクリシュナは私と同じ宗派の大覚者(パラマハンサ)だ」と言う。そして、それぞれに自分の信仰を深め、浄めていった。古今東西、こんな“宗教家”があっただろうか? 私は聞いたことがない(仏教についていえば、インドでは仏教はヒンドゥー教の一派とみなされている)。(『インドの光 聖ラーマクリシュナの生涯田中嫺玉
 それでも、敗戦の瓦礫の中から祖国を復興するために、経済再建の意気に燃えていた頃の自民党には、理想と教養を持つ政治家もいて保守合同に参集したが、経済力がついた70年台に政界が利権の漁場になるに従い、愚民政治による社会の退廃が急速に進み、経済の拡大に反比例して社会倫理が衰退し、政権担当は既得権擁護のためになり果てた。
 田中内閣による金権政治の横行に続いて、中曽根内閣で表と裏の社会が逆転した後は、竹下内閣で暴力団の影響が政策を動かしたので、政治の場は利権取引の舞台にと変貌した。その結果、国会の議席は二世と官僚出身がほぼ占有し、隙間を人気稼業のタレント候補が埋める形で、議会の多数派を利権屋が支配したために、日本の政治から理想や教養が雲散霧消して、国政の関心は数合わせと利権配分になった。
(『夜明け前の朝日 マスコミの堕落とジャーナリズム精神の現在藤原肇

朝日新聞