コロンブス以後、16世紀半ばまで、ヨーロッパ人の間で一番問題となったのはインディアンキリスト教を理解する能力を持っているのか否か、ヨーロッパ人と同じ理性を持った存在であるのか否かという問題であった。
 ここで、先にも紹介した、アウグスティヌスの怪物的存在についての議論を想い起こそう。そこでは、彼は人間を「理性的で死すべき動物」と定義し、怪物の姿をしていようと何であろうと、この定義にあてはまれば、それはアダムとエヴァの子孫であると断言していた。このことは、逆に言えば、人間の姿をしていても、それが「理性的」でないとしたら、それはアダムとエヴァの子孫ではないということになる。
(『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か岡崎勝世
 歴史という文化は、地中海世界と中国世界だけに、それぞれ独立に発生したものである。本来、歴史のある文明は、地中海文明と中国文明だけである。それ以外の文明に歴史がある場合は、歴史のある文明から分かれて独立した文明の場合か、すでに歴史のある文明に対抗する歴史のない文明が、歴史のある文明から歴史文化を借用した場合だけである。
 たとえば日本文明には、668年の建国の当初から立派な歴史があるが、これは歴史のある中国文明から分かれて独立したものだからである。
 またチベット文明は、歴史のないインド文明から分かれたにもかかわらず、建国の王ソンツェンガンポの治世の635年からあとの毎年の事件を記録した『編年紀』が残っており、立派に歴史がある。これはチベットが、唐帝国の対抗文明であり、唐帝国が歴史のある中国文明だったからである。
 イスラム文明には、最初から歴史という文化要素があるけれども、これは本当はおかしい。アッラーが唯一の全知全能の神で、宇宙の間のあらゆる出来事はアッラーのはかり知れない意志だけによって決定されるとすれば、一つ一つの事件はすべて単独の偶発であり、事件と事件の間の関連を論理によってたどろうなどというのは、アッラーを恐れざる不敬の企てだ、ということになって、歴史の叙述そのものが成り立たなくなってしまう。(中略)
 しかし、もっと大きな理由は、イスラム文明が、歴史のある地中海文明の対抗文明として、ローマ帝国のすぐ隣りに発生したことである。地中海文明の宗教の一つであるユダヤ教は、ムハンマドの生まれた6世紀の時代のアラビア半島にも広がっていた。ムハンマド自身もその影響を受けて、最初はユダヤ教の聖地であるイェルサレムの神殿址に向かって毎日の礼拝を行っていた。
(『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統岡田英弘
 ここで初めの問いに戻ると、人間が他の生物に比べて相対的な「最大寿命」が長いということの意味が、以上のことから明らかになる。それは、人間の場合、生殖を終えた後の「後生殖期」が長い、ということである。つまり、純粋に生物学的に見ると“不要”とも言えるような、子孫を残し生殖機能を終えた後の時代が構造的に長い、という点に、「ヒト」という生き物のひとつの大きな特徴がある。(『死生観を問いなおす広井良典
 君たちは或る人の生活を、また或る人の死を、とやかく言い、何か格別の功績のために偉大とされる人物の名前に向かって、あたかも見知らぬ人に出会って吠えかかる小犬のように吠えかかる。君たちにとっては、誰もが善き人と思われないほうが好都合だからであって、あたかも、他人の美徳が君たち全体の過失を叱ってでもいるかのように思えるのだ。君たちは嫉妬しながら、他人の輝かしさを自分の汚なさに比べるが、そんなことをあえて行なうことが、どんなに君たちの損になるかも分からない。ところが、もし徳を求める者たちが貪欲で好色で野心家であるというならば、徳という名を聞くだけで嫌気を覚える君たちは、一体全体何者だというのか。(「幸福な人生について」)『人生の短さについて 他二篇セネカ茂手木元蔵
「東洋の宗教哲学はすべて、宇宙エネルギーだという考えに基づいています。それが現代の量子物理学によって裏づけられたってわけですよ。それに東洋では、宇宙において人間の心は基本的にひとつだと信じられています。これは、ユングの集合的無意識を想起せずにはいられません。
 仏教徒は、万物は永遠ではないと信じています。ブッダは、この世界の苦しみはすべて、人間がひとつの考えやモノに執着することから生まれると説きました。人はあらゆる執着を捨て、宇宙は流れ、動き、変化するものだという真理をうけいれるべきだとね。仏教の視点からすると、時空とは意識の状態の反映でしかありません。仏教徒は対象をモノとしてではなく、つねに変化していく宇宙の動きと結びついた動態過程とみなしています。彼らは物質をエネルギーとしてとらえているんですよ。量子物理学と同様にね」
(『数学的にありえないアダム・ファウアー:矢口誠訳)
 自ら思索する者は自説をまず立て、後に初めてそれを保証する他人の権威ある説を学び、自説の強化に役立てるにすぎない。ところが書籍哲学者は他人の権威ある説から出発し、他人の諸説を本の中から読み拾って一つの体系をつくる。その結果この思想体系は他人からえた寄せ集めの材料からできた自動人形のようなものとなるが、それに比べると自分の思索でつくった体系は、いわば産みおとされた生きた人間に似ている。その成立のしかたが生きた人間に近いからである。すなわちそれは外界の刺激をうけてみごもった思索する精神から月満ちて生まれたのである。
 他人から学んだだけにすぎない真理は、我々に付着しているだけで、義手義足、入れ歯や蝋の鼻か、あるいはせいぜい他の肉を利用して整形手術がつくった鼻のようなものにすぎないが、自分で考えた結果獲得した真理は生きた手足のようなもので、それだけが真に我々のものなのである。思想家と単なる学者との相違もこのような事情に由来する。したがって自ら思索する者の精神的作品は1枚の生き生きとした絵画、光りと影の配合も正しく、色調も穏やかで、色彩のハーモニーもみごとな生き生きとした出色の絵画のおもむきを呈する。これに反して単なる学者の著作は、色彩もとりどりに豊かでくまなくととのってはいるが、ハーモニーを欠いた無意味な一枚の絵画板に近い。
(『読書について 他二篇ショウペンハウエル

ショーペンハウアー読書
 ヒトの脳に考えを行動に移そうとする強迫的な傾向があるならば、われわれが神話を演じずにはいられないことも、容易に理解できる。運命、死、人間精神の本質などの神話のテーマは、誰にとっても大きな関心事であり、注目すべき問題であるからだ。われわれの祖先が神話をイメージし、それを演じているうちに、リズミカルな動作の繰り返しによって超越的な感覚を誘発できることに気づく者が出てきた可能性は非常に高い。神話のテーマや物語に、このたしかな感覚が加わったとき、効果的な宗教儀式が創造(実際には「発見」)される。
 効果的な宗教儀式はどれも、神話のテーマと一定の神経学的過程とを結びつけ、神話に生命を吹き込む点で共通している。象徴的に神話の世界に没入した信者は、神話が内包する深遠な謎を正面から見据え、その謎が解決される過程を体験する。その体験は強烈で、ときには人生を変えることもある。ここで、儀式のリズムと内容は、どちらも非常に重要だ。儀式のリズムが、参加者たちの脳を神経学的に共鳴させられなくなったり、自律神経系や感情に適当な反応を誘発させられなくなったりしたとき、あるいは、儀式のテーマや象徴が新鮮味を失ったり、文化との接点を失ったりしたときには、儀式のスピリチュアルな意味は失われてしまう。
(『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンスアンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース:茂木健一郎訳)

科学と宗教脳科学認知科学脳神経科学
 もっと一般的に言えば、私たちは、自分の好む結論と自分が嫌う結論とに別々の評価基準を用いがちだということである。自分が信じたいと欲している仮説に対しては、仮説に反しない事例を捜してみるだけである。これは、多くの情報が曖昧で多義的な性質を持っていることを考えれば、比較的達成されやすい基準である。これに対し、信じたくない仮説に対しては、そうした忌まわしい結論にどうしてもならざるをえないというような証拠を捜すことになる。これは、ずっと達成が困難な基準である。言い替えれば、信じたい仮説については「この仮説を信じても良いか」と自問するのに対し、信じたくない仮説については「この仮説を信じなければならないか」と自問しているのである。こうした二つの質問に肯定的に答えるために必要な証拠は、まったく違ったものである。それでも、私たちは往々にしてこうしたやり方で質問を形作り、客観的な基準で判断を下しているつもりのまま、自分が信じたいことがらを正しいと信じることにまんまと成功しているのである。(『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるかトーマス・ギロビッチ:守一雄、守秀子訳)

認知科学科学と宗教
 意識の内容は、人がそれを経験する前に、すでに処理され、削減され、コンテクストの中に置かれている。意識的経験は深さを持っている。すでにコンテクストの中に置かれている、たくさんの情報が処理ずみだが、その情報が私たちに示されることはない。意識的自覚が起こる前に、膨大な量の感覚情報が捨てられる。そして、その捨てられた情報は示されない。だが、経験そのものは、この捨てられた情報に基づいている。
 私たちは感覚を経験するが、その感覚が解釈され、処理されたものだということは経験しない。物事を経験するときに、頭の中でなされている膨大な量の仕事は経験しない。私たちは感覚を、物の表層をじかに感知したものとして体験するが、ほんとうは感覚とは、体験された感覚データに深さを与える処理がなされた結果なのだ。意識は深さだが、表層として体験される。
(『ユーザーイリュージョン 意識という幻想トール・ノーレットランダーシュ:柴田裕之訳)

認知科学
 マリー・キュリーはその後も専門分野で際立った功績をあげ、1914年には名高いパリ大学ラジウム研究所の設立に尽力している。ノーベル賞を二度受賞していながら、科学アカデミー会員に選ばれることはなかった。その大きな要因は、ピエールの死後、妻のいる物理学者を相手に、フランス人の尺度からしても過剰に不謹慎な不倫関係を持ったことだ。少なくともアカデミーを運営しているご老体たちの神経を逆撫でしたことは確かで、それは致命的だった。(『人類が知っていることすべての短い歴史ビル・ブライソン楡井浩一訳)
 ニューヨーク市の二人の心理学者――コロンビア大学のビブ・ラターンとニューヨーク大学のジョン・ダーリー――は、「傍観者問題」と称するテーマで一連の研究を発表した。その研究のなかで、彼らは一種類もしくは二種類の危機的場面を様々な状況で設定し、誰が救出にやってくるかを観察している。その結果、救出行動の予兆となるもっとも大きな要素は、なんと、その事件にどれだけ目撃者がいるかにかかわっていることが判明したのだ。
 たとえばある実験で、ラターンとダーリーは、癲癇(てんかん)の発作を学生に演じさせる。隣の部屋でその発作の様子を一人で聞いている場合には、85%の確率で学生の救出に向かう。だが、被験者がこの発作を聞いているのが自分のほかに4人いるということを知っている場合には、31%しか学生を救出しようとしないのだ。
 もう一つの実験ではドアの隙間(すきま)から煙が忍び込んでくるのを目撃させる。部屋に一人でいる場合には75%がそれを通報するが、グループでいる場合には38%しか通報しない。
 つまり、集団でいると責任感が薄れるのである。彼らは誰かが助けを呼ぶだろうと考える。あるいは、誰も行動を起こしていないのだから、一見すると問題が起こっているようだが――この場合、癲癇の発作のような声であり、ドアから忍び込んでくる煙――、実際はたいした問題ではないのだろうと考える。
 キティ・ジェノヴィーズ(1964年にニューヨークで女性が刺殺された事件。38人もの人々が目撃しながら、誰一人警察に通報しなかった)の場合、ラターンやダーリーのような社会心理学者によれば、教訓は38人もの人が悲鳴を聞いていたにもかかわらず通報しなかったということにあるのではなく、38人もの人が聞いていたからこそ、誰も通報しなかったことにあるという。皮肉なことだが、彼女がたった一人しか目撃者のいないうら寂れた通りで襲われていれば、助かっていたかもしれない。
(『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則マルコム・グラッドウェル:高橋啓訳)

ネットワーク科学
 日本憲法には「納税は国民の義務」という条文がありまして、例によってお上に従うのが大好きな日本人は、これをありがたく遵守しています。一方、アメリカ合衆国憲法には「議会は税を課し徴収することができる」としかありません。
 欧米諸国において憲法とは、国民の権利と国家の義務を規定したものなのです。日本はまるっきり逆。国民に納税しろと命じるずうずうしい憲法は世界的に見てもまれな例です。
 スペインの憲法には「納税の義務」が記されていますが、税は平等であるべしとか、財産を没収するようなものであってはならぬなど、国家に対する義務も併記されています。日本では納税しないと憲法違反となじられますが、役人が税金を湯水のごとくムダ遣いしても憲法違反にはならず、はなはだ不公平です。
 一方的に国民に納税を要求する取り立て屋のような憲法があるのは、日本・韓国・中国くらいものですから、こんな恥ずかしい憲法はもう、即刻改正しなければいけません。
(『反社会学講座パオロ・マッツァリーノ
 ここまで見てきたように、ピーターの本末転倒人間(またの名を職業的機械人間)には、自主的に判断を下す能力がありません。常に組織のルールや上司の指示に従うだけで、決断はしません。これが階層社会では有能と判断されます。したがって、本末転倒人間は昇進の対象になるのです。彼は昇進を続けることでしょう。ただし、不幸な昇進によって、自分で決定を下さなくてはならなくなったときが年貢の納めどきです。そこで彼は無能レベルに到達することになるわけです。
 つまり、職業的機械人間もピーターの法則の例外ではないということになります。
 私は学生たちに、常々こう言っています。
「有能か無能かは、見る人次第で変わる。善悪の観念もそうだし、美意識だってそう。ついでに言えばコンタクトレンズもそうだ。どれもこれも見る人の眼のなかにあるんだから!」
(『ピーターの法則 創造的無能のすすめローレンス・J・ピーター、レイモンド・ハル:渡辺伸也訳)

【の法則】
 アリストテレスの自然観は間違っていたが、影響力が大きく、1000年以上もの間、よほど現実的な見方も含め、それと対立する見方をすべて脇に押しやっていた。西洋世界がアリストテレス自然学を――アリストテレスによるゼノンの無限の排除とともに――打ち捨てるまで、科学が進歩することはなかった。
 ゼノンは、知性にあふれていたにもかかわらず、深刻な問題に突き当たった。紀元前435年頃、エレアの圧政者ネアルコスを打ち倒そうと謀り、この大義のために武器を密輸していた。ところが、不運なことに、ネアルコスに陰謀を知られ、逮捕された。ネアルコスは、共謀者を知ろうと、ゼノンを拷問にかけた。まもなく、ゼノンは拷問者たちにやめてくれと頼み、共謀者たちの名前を言うと約束した。ネアルコスが近づくと、ゼノンは、名前は秘密にしておくのがいちばんだから、もっと近寄ってほしいと言った。ネアルコスは体を傾け、顔をゼノンのほうに寄せた。すると突然、ゼノンはネアルコスの耳に噛みついた。ネアルコスは悲鳴を上げたが、ゼノンは噛みついたまま放さなかった。拷問者たちは、ゼノンを叩き殺してやっと引き離すことができた。こうして無限なるものの大家は死んだのだ。
 やがて、古代ギリシアに無限なるものに関してゼノンを凌(しの)ぐ者が現れた。シラクサの変わった数学者アルキメデスだ。無限なるものを垣間見た、ただ一人の思想家だった。
(『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念チャールズ・サイフェ:林大訳)
 すぐにベルリンへ向かった。寛大な老師は、自分をないがしろにしていた弟子に、惜しみない激励を与えた。ソーニャ(※ソフィア・コワレフスカヤ)の数学へのすさまじい打ち込みが始まった。モスクワへいったん移ってから、今度は娘を連れて再びベルリンへ向かった。夫との仲はすでに冷え切っていた。透明媒体中の光の伝播について研究を始めると同時に、娘をモスクワの友人に預ける。パリとベルリンを往復しながら、師の紹介で知ることとなったフランスの巨匠達、パンカレやエルミートをはじめ、多くの研究仲間と交わる。彼等は一様に、ソーニャの深い知識や鋭い知性、それに加えて「会話のミケランジェロ」とも称された類い稀な話術に魅了されたのだった。
 パリで、学生の身分に不満を覚えながらも、光の屈折に関する数学的研究を順調に進ませていた時、夫コワレフスキーの自殺を知らされた。彼女は衝撃で5日間、意識不明に陥っていたが、6日目に目を覚ますと、ベッドの上で数学公式を書き始めたという。
(『天才の栄光と挫折 数学者列伝藤原正彦

数学
 なぜ都市で、とくに時間が早くなるのか。もちろん、ハイテク化が進んで行くからである。それでは、ハイテク化とはなにか。コンピュータに代表されるように、それはまず第一に、情報化である。なぜ都市は、とくに大都市は、極端に情報化するのか。
 都市とはもともと、そのために生じたものなのである。都市には、予測不能なもの、ゆえに統御不能なものは、存在してはならない。それどころか、不測かつ統御不能という性質を持つものを排除した空間、そうしたものとして、そもそも都市が成立したのである。あたりまえのことだが、すべての予測は情報の上に成り立つ。一極集中がどこまでも進むことも、情報に関係している。入手が遅れた情報は、その価値を失う。それは、だれでも気づいていることであろう。
(『カミとヒトの解剖学養老孟司

科学と宗教
 海軍副将ジェイムズ・B・ストックデールほど苦しみを味わった捕虜はあまりいない。彼は、ベトナムの戦争捕虜として、2714日を耐えぬき、英雄的に生還した。
 ある時、北ベトナム兵がストックデールの手を背中に回して手錠を掛け、彼の足に重い鉄の鎖をつけた。そして、彼を暗い独房から引きずり出し、中庭に座らせて晒し者にした。それは、協力を拒んだ者がどのような目に会うかということを、他の捕虜に見せつけるためだった。
 その出来事を記載した海軍の公式記録によれば、ストックデールはその姿勢を3日間続けなくてはならなかったという。彼は、長い間太陽の光を浴びたことがなかったために、すぐ疲労を感じ始めた。しかし、見張り兵は彼を眠らせなかった。そして何度も殴られた。
 ある日のこと、殴られた後にストックデールは、タオルを鳴らす音を聞いた。それは、刑務所の暗号で、"GBUJS"という文字を伝えるものだった。そのメッセージを彼は決して忘れることができない。「ジム・ストックデールに神の祝福あれ。God bless you Jim Stockdale」
 アメリカにおいて近年捕らわれの身になった捕虜や人質すべてに当てはまることだが、即席かつ巧みに作り上げられたコミュニケーションが、彼らの大きな助けとなっている。ベトナムでは、叩打音が暗号として用いられた。音の数やつながりがアルファベットの文字を表わしていて、それが、捕虜たちのコミュニケーションのおもな手段になったのである。ジム・ストックデールを助けたのもこの暗号だった。
 まず、捕虜にとって、文字をつなぎ合わせて意味のあるメッセージを作れるように文字の暗号を覚えることが先決だった。しかし、すぐに彼らはそれに慣れ、そのシステムが彼らの第二の天性のようになった。孤独な捕虜たちは、壁や天井や床を叩いた。距離が近い場合には指を使った。距離が遠い場合には、拳や肘やプリキのコップを用いた。
「すぐにメッセージが、独房の一つのブロックから別のブロックへ、そしてさらには、建物から建物へ、交通のように流れていきました」と、エペレット・アルバレッツは回想する。
 最終的に、戦争捕虜たちは、叩打音を使った日常の交信をさらに発展させて、より洗練されたものを作り上げた。とくに効果的だったのは、箒で刑務所構内を掃きながら、集団全体に「話しかける」方法だった。
 ある捕虜が別の独房のそばを通りかかったときには、サンダルを引きずって暗号を流すことができた。毛布を振ったり、げっぷをしたり、鼻をかんだりして昔を出し、仲間にメッセージを送る人もいた。また、特別な才能を持っている捕虜も何人かいて、自分の意志でおならを出して暗号を送っていた。捕虜の一人は、毎日1~2時間、昼寝をしているふりをし、いびきを立てて、皆がどのような生活を送っているか、また、彼の独房の中でどのようなことが起こっているか、ということを報告していた。
 また、身体に引っかき傷を作ってコミュニケーションするという、刑務所の中ではよく見られる方法さえ取られるようになった。反アメリカ宣言をするように強要された一人の捕虜は、誰もいない中庭を通って広場に行く途中、彼の様子を気づかって、多くのアメリカ人の目が自分に釘づけになるということがわかっていた。そこで彼は、まず「c」という文字、次に「o」という文字、そして「p」という文字の引っかき傷を作り、最後にその引っかき傷が“頑張っている c-o-p-i-n-g”という言葉になるようにしたのだ。
 5年半におよぶ捕虜生活の大半を独房で過ごした、海軍少佐ジョン・S・マッケイン3世は、次のように結論づけている。
「戦争捕虜として生き延びるために最も重要なことは、誰かとコミュニケーションを持つことでした。ただ単に手を振ったりウィンクをしたりすることでも、壁を叩いたり誰かに親指を上げさせたりすることでもよかったのです。それによってすべての状況が一変しました」
(『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たちジュリアス・シーガル:小此木啓吾訳)
 この身体によって世界に意味を与える脳のシステムが働かなければ、人間は発達することができない。身体は世界と出会い、対話し、その意味を作り出してゆく。運動はすべての源であり、世界は意味に満ちている。認知とは、そうした無数の意味を自己組織化することにほかならないのである。(『脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦宮本省三
 おたずねになりたいことはありませんか?
 質問をすることはもっともむずかしいことのひとつなのですよ。
 私たちはたずねなければならない問いを何千も抱えています。
 私たちはあらゆるものを疑わなければならないのです。
 なんに対してもただ従ったり受けいれたりしてはいけません。
 私たちは自分自身で見いださなければならないのです。
 他の人を通じてではなく、自分自身で真実を見なければならないのです。
 そして、真実を見るためには、完全に自由でなければならないのです。
 正しい答えを見いだすためには、正しい質問をしなければなりません。
 まちがった質問をしたら、必然的にまちがった答えを受けとることになるからです。
 そういうわけで、正しい質問をするというのは、もっともむずかしいことのひとつなのです。
 これはべつに、話し手があなたがたに質問をさせないようにしているわけではないのですが。
 あなたがたは、心から、きわめて真剣な気持ちで質問しなければなりません。生というのはたいへん重大なものですから。そのような質問をするということは、あなたがすでに自分の精神を探り、自分自身の非常に深いところまで踏みこんでいるということです。
 ですから、知性的な、それ自体を認識している精神だけが、正しい質問をすることができるのですし、それをたずねることそのもののなかに、その問いへの答えがあるのです。
 どうか笑わないでください。これはきわめてまじめなことなのです。
 というのも、あなたがたはつねに、他の人にどうすべきかを教えてもらうことを期待しているからです。
 私たちはいつも、他の人の灯で自分のランプをともしてもらいたがっているのです。私たちが自分自身の灯であることはけっしてありません。自分自身の灯であるためには、私たち自身の精神で見、観察し、学ぶことができるよう、あらゆる伝統、話し手のそれをも含めたあらゆる権威から自由でなければならないのです。
 学ぶというのはもっともむずかしいことのひとつです。質問をするのはかなりやさしいことですが、正しい質問をして正しい答えを得るというのは、まったく別のことなのです。
 さてみなさん、ご質問は?(笑い)
(『あなたは世界だJ・クリシュナムルティ:竹渕智子訳)
「病院では一年しか生きられないって言われた。在宅だってムリだって言われてたんだもん。それをやり遂げたんだから。オレにとっては誇りだよ。
 自立生活とは自由を得られることだ。でも、その裏側には、つねに自己責任がついてまわるね。病院を出るときにも一筆書いてるんだよ。もしボランティアがミスをして死んでも、何があっても病院や人のせいにはしないって。
 だけど、やっぱり家が一番だ。ここよりイイ場所は他にはないよ。病院じゃなく、ここにいること自体が、命を張ったオレの仕事さ」
(『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち渡辺一史

障害介護
 クジラ、アザラシ、象、海亀……。これらの動物に共通しているのは神秘性があり、十分な愛玩性を備えていることだろう。ペットにはできないが、観賞用としては野生動物の中では上位を占める。
 このような動物が有色人種によって無駄に殺され、資源が絶滅に向かっているとのキャンペーンは、欧米諸国で広く深く、そして急速に受け入れられた。そして「この動物を保護するために寄付を」との呼びかけに数百万人が反応した。グリーンピースは、80年代に年間約200億円のカネを集めている。だが、このカネは動物の保護に使われることはなく、組織の拡大と新たなキャンペーンへの経費に充てられた。
(『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い梅崎義人
 アッバースの方はどうかというと、シャウキーに対して眉(まゆ)一つ動かすでなく、石のように死んだ視線を向け続けていた。だが、シャウキーの叫び声が咆哮に変わるや、アッバースの死んだような目の表面に一瞬光が差し、その瞬間彼は何かを理解したようであった。その直後、彼は激しい震えに見舞われ、それはやがて恐怖に戦く目となって表に現われた。その震えは内へ内へと深まり、強大な恐怖となって根を下ろし始めた。その恐怖は上半身を立てて、横になっていた者の内にも生命を通わせた。恐怖によって。彼は身を縮め始めた。身を縮めながら、彼の妻を道連れにしてベッドの縁の方へ這(は)って後退し始めた。彼の体は次第に小さく、丸まっていった。人間がこれほどまでに小さく縮むことができるとは、思ってもみなかった。もしこのままの早さで凝縮が続くなら、やがてこの人間の球体は姿を没し、存在しなくなるだろうとさえ思われた。(「黒い警官」ユースフ・イドリース:奴田原睦明訳/『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20』)
 タリバーンは、反タリバーン地域を制圧すると、家と畑を焼き、男たちを連れ去ったと難民が訴えていた。娘や妻にガソリンをかけ家族の目の前で殺し、人々に恐怖感を植えつけて村に戻れないようにしたともいう。人が集まる市の立つ日を狙って爆撃を加えることもあった。「アフガン人なら、こんな残酷なことはできない」と住民は怒りを募らせた。マスードは「タリバーンの40%はパキスタン、アラブなど世界各国からの外国兵だ」と話していたが、アフガニスタンに世界の原理主義者たちが集うにようになったきっかけはソ連軍の侵攻だった。イスラムの聖戦に加わった各国の義勇兵の中で、原理主義組織のネットワーク作りが進んでいった。その中に、オサマ・ビンラディンもいた。(『マスードの戦い長倉洋海
 指揮科の学生は、楽譜の印刷の手配から譜面台の準備まで「カバン持ち」のように斎藤と行動をともにし、「丁稚小僧」のように厳しく教えこまれた。小澤(征爾)の場合、指揮棒でたたかれたり、分厚いオーケストラの譜面を投げつけられたりするのが日常化していた。斎藤の言葉に小澤が思わず、拳を振り上げようとしたことすらあった。その場にいた生徒たちは、斎藤が殴られると思った。しかし、小澤は顔をひきつらせて腕を下ろした。ばらばらになった楽譜を、小澤は家に持ち帰ってはセロテープではりつけていた。小澤は一時は親戚だからこんなに厳しくされるのかと思ったことさえあった。斎藤は親戚であろうとなかろうと手心を加えることはなかった。
 小澤はオーケストラの雑用で疲れきり、家に帰っても玄関で靴を脱がずに座り込んでいることもあった。自分の指揮の勉強が十分できないまま斎藤のレッスンに行くと、不勉強を指摘されて怒鳴られもした。そんなある日、小澤は家に帰るなり、言葉も発せずに拳で本箱のガラスをめちゃくちゃに壊してしまった。小澤の右手はガラスの破片が刺さり、血だらけになっていた。
 高校時代の小澤は、虚弱体質ぎみで十二指腸潰瘍を患ったりしていた。もちろん痩せていた。そして、この痩せているのは、指揮科の生徒全員の特徴でもあった。秋山和慶は語る。
「月月火水木金金だと先生は言ってました。音楽を勉強するのに休みがあるのか、消防士は休むか、とそんな具合。昼飯すら食べる時間のないくらい、いろいろ雑用があったのです」
(『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯中丸美繪

斎藤秀雄
 私が言いたいのは、この世界は大きくて恐ろしくて騒々しくて狂っていて、でもとても美しい、でも嵐のまっただなかにいるということだ。
 私が言いたいのは、もし私が色を人間と考えるとすると、人間を硬くて白い白墨(チョーク)、さもなければ茶色の、または黒いチョークと考えるとすると、それがどんなちがいがあるのかということだ。
 私が言いたいのは、なにが好きかなにを望んでいるか私にはわかっているということ、そして彼女にはわかっていないということ、それから彼女が私に好きになってほしいもの、望んでほしいものを、私は好きでもなく望みもしないということだ。
(『くらやみの速さはどれくらい』エリザベス・ムーン:小尾芙佐訳)
 長いあいだ科学者たちは、空が夜暗いという事実を不思議に思っていた。宇宙には何兆という数の星があってどちらの方向にも星はあるはずで、星の光が地球にとどくのをじゃまするものはほとんどないのだから、空は星の光でいっぱいのはずなのになぜ暗いのだろうと思っていた。
 そこで科学者たちは、宇宙が膨張しているのだと考えた。ビッグバンのあと星はたがいにすごい速度ではなれていっている。われわれから遠ければ遠いほど速い速度で動いていく、そのなかのあるものは光の速度くらい速い、だから星の光がわれわれのところにとどかないのだと考えた。
(『夜中に犬に起こった奇妙な事件マーク・ハッドン小尾芙佐訳)
 故にこれを校(えら)ぶるに計を以てして、其の情を索(もと)む。曰く、主 孰(いず)れか有道なる、将 孰れか有能なる、天地 孰れか得たる、法令 孰れか行なわる、兵衆 孰れか強き、士卒 孰れか練(なら)いたる、賞罰 孰れか明らかなると。吾れ此れを以て勝負を知る。

【それゆえ、〔深い理解を得た者は、七つの〕目算で比べあわせてその時の実情を求めるのである。すなわち、君主は〔敵と身方(ママ)とで〕いずれが人心を得ているか、将軍は〔敵と身方とで〕いずれが有能であるか、自然界のめぐりと土地の情況とはいずれに有利であるか、法令はどちらが遵守されている、軍隊はどちらが強いか、士卒はどちらがよく訓練されているか、賞罰はどちらが公明に行なわれているかということで、わたしは、これらのことによって、〔戦わずしてすでに〕勝敗を知るのである】

(『新訂 孫子金谷治訳注)

孫子
 シボマナが大笑いして、私に近付いてきた。
「おやおや、そこで外に鼻を突き出しているのは、ツチの家族の長男じゃないか!」
 そう言うと非常に機敏な動作で、私の顔から鼻を削いだ。
 別の男が鋲(びょう)のついた棍棒で殴りかかってくる。頭をそれた棍棒が私の肩を砕き、私は地面に倒れ伏した。シボマナはマチューテを取替え、私たちが普段バナナの葉を落とすのに使っている、鉤竿(かぎざお)のような形をした刃物をつかんだ。そして再び私の顔めがけて襲いかかり、曲がった刃物で私の左目をえぐり出した。そしてもう一度頭に。別の男がうなじ目掛けて切りかかる。彼らは私を取り囲み、代わる代わる襲ってきた。槍が、胸やももの付け根の辺りを貫く。彼らの顔が私の上で揺れている。大きなアカシアの枝がぐるぐる回る。私は無の中へ沈んでいった……。
(『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記レヴェリアン・ルラングァ山田美明訳)

ルワンダ
 殺人者たちは、家から出て行きました。
 私たちは、また息をすることが出来ました。
 でも、彼らは3カ月のあいだに、何度も何度もやってきたのです。
 私は、神様に助けられたと信じています。
 そして、そのクローゼットの大きさほどしかないトイレの中で7人の女性たちとともに恐怖に耐えながら過ごした91日のあいだに学んだのです。
 生かされたということは、ただ助けられたのとはまったく違う意味を持っているのだと。
 このレッスンは、私の人生を永久に変えました。
(『生かされて。イマキュレー・イリバギザ、スティーヴ・アーウィン)

ルワンダ
「どうしてぼくのことを放っておいてくれないんだ?」
 私はまた彼の横に腰を下ろした。「なぜなら、お前さんが生まれた時からみんなが放ったらかしておいて、そのために今、お前は最低の状態にあるからだ。おれはお前をそのような状態から脱出させるつもりでいるんだ」
「どういう意味?」
「お前が関心を抱く事柄が一つもない、という意味だ。誇りを抱けることがまったくない。お前になにかを教えたり見せたりすることに時間をさいた人間が一人もいないし、自分を育ててくれた人々には、お前が真似たいような点が一つもないのを見ているからだ」
「なにも、ぼくが悪いんじゃないよ」
「そう、まだ今のところは。しかし、なにもしないで人から見放された状態に落ち込んで行ったら、それはお前が悪いんだ。お前はもう一人の人間になり始めるべき年齢に達している。それに、自分の人生に対してなんらかの責任をとり始めるべき年齢になっている。だから、おれは手をかすつもりでいるのだ」
(『初秋ロバート・B・パーカー:菊池光訳)