綱(つな)
 よごすまじく首拭く
 寒の水

   和之(31歳)

(『異空間の俳句たち 死刑囚いのちの三行詩』異空間の俳句たち編集委員会)

詩歌
 乾亮一さんの調査(『市川三喜博士還暦祝賀論文集』研究者)によりますと、英語では擬音語・擬態語が350種類しかないのに、日本語ではなんと1200種類に及ぶ。3倍以上ですよね。小島義郎さんは、『広辞苑』の収録語彙をもとに同じような調査(『英語辞書学入門』三省堂)をしていますが、彼によると、日本語の擬音語・擬態語の分量は英語の5倍にもなります。擬音語・擬態語は、まさに日本語の特色なのです。(『犬は「びよ」と鳴いていた 日本語は擬音語・擬態語が面白い』山口仲美)
 スパイにとっては『スパイである』という身元を洗い出されることがいちばん困るのだから、自分が殺されるというぎりぎりの限界まで『殺し』という最後の武器を使うことはない。
 また『殺されない』ということも大事で、スパイは『探りだした』だけではななんいもならない。『探りだしたことを報告して』こそ、はじめて任務の達成ができるのである。だから、たとえ手足を斬(き)られて歩けなくなっても、転びながら帰る。舌を抜かれて、目をえぐりとられても、心臓の動いているかぎりは死なずに帰って報告するのが、まず第一の任務とされている。
(『秘録 陸軍中野学校』畠山清行著、保阪正康編)

中野学校小野田寛郎
 ジャコメッリは西暦2000年に75歳で死んだ。デジタルカメラが登場し、モノクロームフィルムがカメラ屋の店頭からほとんど姿を消し、世界が色で溢れかえる時代までかれは生きたが、しかし最後まで色をつかうことはなかった。実験的に試みたことすらあったかどうか。かくも色の氾濫する時代にあって、かれは頑固なまでにモノクロームにこだわり、白と黒の世界に「時間と死」を閉じこめつづけ、そうすることで「時間と死」を想像し思弁する自由をたもちつづけた。「時間と死」はジャコメッリにより息づいたのである。(『私とマリオ・ジャコメッリ 〈生〉と〈死〉のあわいを見つめて』辺見庸)
【GDPとGNPの違い】

 日本人歌手のアメリカ公演
 ……日本のGNPには入るが、日本のGDPには入らない。(アメリカのGDPに入る)

 アメリカ人歌手の日本公演
 ……日本のGDPには入るが、日本のGNPには入らない。(アメリカのGDPに入らない)

(『図解雑学 マクロ経済学』井堀利宏)
 ペーパーマネーの行き過ぎで崩壊する世界経済なのですから、元に戻す、いわゆる実体を持った通貨制度に復活しよう、という議論が起こってくるに違いありません。100%の金本位制が不可能であっても、たとえば中央銀行はその通貨発行の20%の金(ゴールド)の保有を義務づけるといった方針が、突然アメリカから提案、決定される可能性が十分あります。ニクソンショック後に行った通貨制度が機能し得なくなっているのだから、ニクソンショック以前に戻す、いわゆる「逆ニクソンショック」これは将来、「オバマショック」と言われるかもしれません。世界を震撼させるウルトラCが、突然やってくるのです。(『恐慌第2幕 世界は悪性インフレの地獄に堕ちる朝倉慶
 いずれにせよ、法律とはインセンティブの構造を明文化したものにすぎない。(『戦略的思考の技術 ゲーム理論を実践する』梶井厚志)
「あのね、最近、世界の端(はし)っこが壊れかけてんの」(『「悪」と戦う高橋源一郎
 われわれは小氷河期から二重の教訓を学ぶことができる。ひとつは、気候の変動はゆっくりと穏やかに起こるわけではないということだ。ある時代から別の時代に突如として変化する。その原因は不明であり、人間にはその進路を変えることはとうていできない。ふたつ目は、気候は人類の歴史を左右するということである。その影響力は大きく、ときにはそれが決定的な要因になることもある。(『歴史を変えた気候大変動』ブライアン・フェイガン:東郷えりか、桃井緑美子訳)
 たとえば、クライアントのお話を聞いていくうちに、むしろ周りにいる人たちの方が病んでいるんじゃないかと思えてくることもありあす。その人自身が病んでいなかったからこそ、歪(ゆが)んだ周囲に反応して具合が悪くなっていたり、また、日本の精神風土に【染まり切れない】ために不適応が起こっているようなケースもある。さらには、現代社会の不自然さに対して馴染(なじ)めないために苦しんでいる人もいる。
 そういうわけで、本人と環境の、そもそも一体どちらが問題なのかということについては、そう簡単に判断することはできません。違和感を覚えないで生きている多数派の方がすなわち健康、と考えるのはあまりに早計でしょう。
(『「普通がいい」という病 「自分を取りもどす」10講』泉谷閑示)
 しかし、債権者/債務者の関係は「社会的諸関係に直接働きかける」だけにとどまらない。なぜなら、この関係はそれ自体が権力関係であり、現代資本主義のもっとも重要で普遍的な様相の一つだからである。クレジット(信用貸し)あるいは負債、そして債権者/債務者の関係はある特殊な権力関係をなし、主観性の生産と統制の特殊な様態(「経済的人間」〔ホモ・エコノミクス〕の特殊な携帯としての〈借金人間〉〔ホモ・デビトル〕)をもたらす。債権者/債務者の関係は、資本/労働、福祉国家/利用者(ユーザー)、企業/消費者といった関係に重ねあわされ、それらの関係を貫いて、利用者(ユーザー)・労働者・消費者を〈債務者〉に仕立て上げる。(『〈借金人間〉製造工場 “負債"の政治経済学マウリツィオ・ラッツァラート:杉村昌昭訳)
 偶然性とは必然性の否定である。必然とは必ず然(し)か有ることを意味している。すなわち、存在が何らかの意味で自己のうちに根拠を有(も)っていることである。偶然とは偶々(たまたま)然(し)か有るの意で、存在が自己のうちに十分の根拠を有っていないことである。すなわち、否定を含んだ存在、無いことのできる存在である。換言すれば、偶然性とは存在にあって非存在との不離の内的関係が目撃されているときに成立するものである。有と無との接触面に介在する極限的存在である。有が無に根ざしている状態、無が有を侵している形象である。(『偶然性の問題』九鬼周造)
 この「意識の流れ」という言葉を聞いて僕はずっと前に、僕のおやじが出してくれた問題を思いだした。「まずこの地球に火星人がやってきたとしよう。火星人は決して眠らず常に活動しているものとする。つまり彼らは睡眠というおよそおかしな現象を必要としないとすれば、きっと次のような質問をするに違いない。「眠りにおちるときには、どんな気持がするものか? 眠るということは、そもそもどういうことなのか? 君たちの思考は突然停止するのか、それともだんだんだーんだーん速度が落ちていくのか? 実際に心というものはどうやって動きを止めるのか?」(『「ご冗談でしょう、ファインマンさん」』R・P・ファインマン)
 作家──もちろんこの言葉は、たんに本を出す人という意味ではなく、文学という事業に取り組んでいる人を指して使っている──は活動家ではない。活動家であってはならない。解決を追求すること、そのため必然的にものごとを単純化することは、活動家の仕事だ。つねに複合的で曖昧な現実をまっとうに扱うのが作家、それもすぐれた作家の仕事である。常套的な言辞や単純化と闘うのが作家の仕事だ。(『この時代に想う テロへの眼差しスーザン・ソンタグ
「幸あるお方」(bhagavat)は、仏教の開祖ゴータマ・ブッダの尊称でもありました。漢訳では、ふつう「世尊」とされます。(『インドの「二元論哲学」を読む イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』宮元啓一
 仏陀像の頭髪は、螺髪(らはつ)と呼ばれる無数の螺旋である。その額にある白毫(びゃくごう)もまたひとつの螺旋である。
 仏教そのものが、円と螺旋の思想体系と言ってもよい。
 現代科学の両極もまた、マクロとミクロの螺旋である。

(『上弦の月を喰べる獅子夢枕獏
 沈没船内で道に迷うか、なにかとからまったダイバーは、自分の死に向かいあうことになる。ダイバーの遺体が沈没船内で多数発見されている――かわいそうなダイバーは道に迷ったまま、目の見えないまま、なにかに引っかかったまま、身動きできないまま、恐怖のために目と口を大きくひらいていた。とはいえ、これらの危険には、奇妙な真実がつきまとう。その危険じたいがダイバーの命を奪うことはめったにないという事実だ。むしろ、危険に対するダイバーの反応――パニック――が、おそらくは生死を分けるのだろう。(『シャドウ・ダイバー 深海に眠るUボートの謎を解き明かした男たちロバート・カーソン:上野元美訳)
 人間は、自分の知らないものに動かされているというのがぼくの意見です。人間のなかには「エス」という何やら驚くべき力があって、それが、人間のすること、人間に起こることのすべてを支配しています。「わたしは生きている」という言は、条件つきでしか正しくありません。それは、根本真理の小さな皮相な現象しか言い表していません。人間は、エスによって生かされているのです。これが根本真理です。(『エスの本 無意識の探究』ゲオルク・グロデック:岸田秀、山下公子訳)
カフカ」はチェコ語で「コガラス」の意味。体の小さなカラスである。そのためカフカ商会は、小枝にとまったコガラスを商標にしていた。(『となりのカフカ池内紀
 師の一目山人は、相場の研究をされるにあたって、洋の東西を問わずさまざまな哲学を学ばれている。その中からカント哲学を第一の論理、ヘーゲル哲学を第二の論理とし、東洋哲学から墨子、老子、荘子を、またインド論理学、さらに仏教論理学で最終段階に達したと書き記されている。京都学派の西田幾多郎哲学を信奉され、終生の師として仰がれたことにも触れられている。(『一目均衡表の研究』佐々木英信)
 光の速さで空間を進むものには、時間に沿って動くための速さが残らない。したがって、光は年をとらない。ビッグバンで生じた光子は、今日でも当時と同じ年齢なのだ。光の速さでは時間は経過しないのである。(『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明するブライアン・グリーン:林一、林大訳)

宇宙
 あるいはメンケンが「民主主義とは個人の無知を集団の知恵に集計する哀れな信仰である」と表現したように、(以下略)
(『選挙の経済学 投票者はなぜ愚策を選ぶのか』ブライアン・カプラン)
 だいたい人間ちゅうのは、悲しい映画を一緒に見に行くと、泣く場所って決まってるんですね。だから涙腺を刺激するようなつくり方というのは簡単なんです。ところが、笑いというものは、人によってずいぶんとらえ方が違いまして、非常に個人差があるわけですね。(中略)
 まあ、どれがいいとか悪いとかいうことではなしに、それぞれ「笑いの尺度」というのは違ってますから、何を滑稽と思うかで、その人の性格がわかると。ですから、結婚しようかなと思う相手とは「ギャグもの」を見に行くことをお勧めします。ほいで、どこで笑うかで、こいつヘンなやっちゃなあとわかります(笑)。同じところで笑えるんであれば、これはほとんど感性、感覚が一緒ですからね、その人と結婚した方がラクです。いいですね、同じところで笑えるというのはものすごく大事なことなんですよ。

(『落語的学問のすゝめ』桂文珍)
 さらにこのような精神科医には、自らの専門性のおおもとである「物語」作成のすべを臨床から転用して、すべての社会事象に説明を与えようとする〈説明強迫〉傾向の強い人々が多い印象を受ける。実はこの〈説明強迫〉もよくない。精神科医がある犯罪者の奇行に説明をつけることにより、本人の独善的行状に社会的容認を与えてしまっている可能性がある。言葉による現象の追認にすぎないと思われるものも多い。わらかないものは説明せず「わからない」と話す勇気も必要ではないか。(『精神科医になる 患者を“わかる”ということ』熊木徹夫)
落合●しかし、皆が皆あなたのように素晴らしい家庭環境とチャンスに恵まれているわけではない。チャンスを全く与えられない者も多いではないか。

セナ●それは違う。皆平等にチャンスは与えられている。この世に生を受けたということ、それ自体が最大のチャンスではないか。

(『狼たちへの伝言 3 21世紀への出撃』落合信彦)
「憎しみ」は心の核兵器である。爆発すれば社会秩序を吹き飛ばし、世界を戦争と集団殺戮(ジェノサイド)の渦(うず)に引き入れるだろう。「憎しみ」は、人と人との関係を粉々に打ちくだく。かつて愛しあった人びとが憎しみゆえにたがいに背を向け、傷つけあい、はては殺しあいさえする。憎悪の爆発は道徳と寛容の心を一掃して人を残虐な行為に駆りたて、集団と集団を争わせ、とどまるところを知らない戦いに巻きこむ。憎しみは職場にも毒をまき散らす。破壊的な力で無垢(むく)な子供の心をねじまげ、世代から世代へと受け継がれて増殖する。憎しみは健康を冒しもする。心臓を圧迫して血圧を上昇させ、免疫系を停止させ、脳に損傷をあたえる。自己嫌悪というかたちで忍び寄れば、人は自分の短所しか見えなくなり、人生のよろこびを奪われ、ついには鬱病(うつびょう)に陥ってみずから生命さえも絶ちかねない。(『人はなぜ憎むのか』ラッシュ・W・ドージアJr.:桃井緑美子訳)
 その一方で、20世紀には、「限界がある」という仰天の帰結が三つ導かれた。現実の世界で私たちが知りうることに、数学の論理を駆使して見出すことができる真理に、そして民主主義を導入して達成できることに、限界があるというのだ。なかでもとりわけ有名なのが、1927年にヴェルナー・ハイゼンベルクによって発見された不確定性原理だろう。それによると、物体の位置と速度を同時に知ることはできず、全知の存在さえ、宇宙に存在する全物体の位置と速度をラプラスに教えることはできない。続く30年代に証明されたクルト・ゲーデル不完全性定理は、数学上の真理を決めるための論理に不備があることを明らかにした。ゲーデルが不完全性定理を確立した15年ほどのちにはケネス・アローが、投票者が属する社会の選り好みを各投票者の選り好みに基づいて満足に表せるような集計方法がないことを示している。20世紀後半になると、私たちの知る能力や行なう能力の限界を示す帰結が多くの分野で数々導かれたが、この三つが文句なくビッグスリーと言えよう。(『不可能、不確定、不完全 「できない」を証明する数学の力』ジェイムズ・D・スタイン:熊谷玲美、田沢恭子、松井信彦訳)

高橋昌一郎
 ある知性が、与えられた時点において、自然を動かしているすべての力と自然を構成しているすべての存在物の各々の状況を知っているとし、さらにこれらの与えられた情報を分析する能力をもっているとしたならば、この知性は、同一の方程式のもとに宇宙のなかも最も大きな物体の運動も、また最も軽い原子の運動をも包摂せしめるであろう。この知性にとって不確かなものは何一つ存在しないであろうし、その目には未来も過去と同様に現存することであろう。(『確率の哲学的試論ラプラス
 私たちが物に依存するのは、内面的に私たちが貧しく、そしてその内面的存在の貧しさを物で覆い隠したいからです。(『片隅からの自由 クリシュナムルティに学ぶJ・クリシュナムルティ:大野純一著編訳)
 脳が実行していることを模倣するというキュビスムの試みは、神経科学的には失敗であった。勇気ある失敗であったかもしれないが、失敗であることに変わりはないのである。(『脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』セミール・ゼキ)

脳科学