ところで明治末からこの時期(1923年)にかけ、米国の一部の州および連邦政府が、日本からの移民の数を西ヨーロッパからの数よりもじゃっかん制限したり、帰化を禁ずる施策を打ち出していた。これは日本の朝野(ちょうや)をたいへん穏やかならざるものにしていた。べつに移民ができなければ、日本の食い詰め人口が野垂れ死ぬといった緊急の利害があったわけではない。そうではなくて、アメリカが日本人をヨーロッパ人並に遇(ぐう)しないと報じられることが、すぐさま、中国大陸内で、中国人の「侮日」(ぶにち)を呼ぶという構図があったからだった。ワシントン条約での対米6割比率の受諾(じゅだく)も、まったく同じように、中国人の侮日をもたらした。(『大東亜戦争の謎を解く 第二次大戦の基礎知識・常識別宮暖朗兵頭二十八

大東亜戦争日本近代史