もっとも重要なことは、軍閥が、その縁故的人事や内輪の決定を通じて軍内政治を支配しただけでなく、それが正院・内閣の文民政治家や元老などと密接な連絡を保ち、軍外の政治過程に大きな影響を及ぼしたことであろう。周知のごとく軍閥は、雄藩出身の政治家を長とする官僚集団=「藩閥」の一部を構成し、その政治力の裏づけとなった。
 政党政治の時代になり、山県有朋〈やまがた・ありとも〉のような藩閥政治家が姿を消した後も、新たなリーダーを求めて、むしろ軍内抗争は激しくなり、それが日本全体の政治を左右した。このように第二次世界大戦以前の日本においては、多くの政治の変動が軍内の抗争と連動して起こっており、他方、軍制は必ずしも純粋に軍事合理的な理由では作られず、何らかの政治目的に従属して操作された可能性があることを忘れてはならない。(大島明子)
(『日本の軍閥 人物・事件でみる藩閥・派閥抗争史』)
美子●(藤原)咲平さんはお天気ばかりではなく、色々なエピソードがあるそうね。

正彦●戦争中、陸軍に協力して風船爆弾を作った。千葉県や茨城県の海岸から、1万発ほどの風船爆弾を、時速100キロにも及ぶジェット気流に乗せて飛ばしたそうだ。この気流の厚さはたった数キロなので、直径10メートルの風船が昼と夜の気温差などにより、この帯から出ないような精巧な工夫をしたんだよ。風雨に打たれても大丈夫なように、和紙に渋柿でコーティングしてね。1割ほどはアメリカまで届いて爆発したらしい。

(『藤原正彦、美子のぶらり歴史散歩藤原正彦藤原美子
「だから、おまえは消えてしまってはだめだ。だからこそ、おまえはこれを乗り越えて、戻ってきて、元気になってくれ。おまえの人生がバラの花の上で踊るような楽しいものではないことは知っている。おまえが人生を粗末に扱っていることも知っている。まるで自分などなんの価値もないというように。だがそうではない。そう思うのは正しくないんだ」(『緑衣の女アーナルデュル・インドリダソン柳沢由実子訳)