日本時代は、太平洋戦争の敗戦で台湾を放棄するまで50年つづいた。私は日本人だから日本びいきなるが、余分な富力をもたない当時の日本が――植民地を是認するわけでないにせよ――力のかぎりのことをやったのは認めていい。国内と同様、帝国大学を設け、教育機関を設け、水利工事をおこし、鉄道と郵便の制度を設けた。(『街道をゆく 40 台湾紀行司馬遼太郎
 変化が不可欠な場合もあるが、それを実行する際は熟慮と正当な理由がなくてはならない。負けているときは必要のないものまで変えたくなるし、勝っていると大惨事の瀬戸際にあっても万事順調と思いこみやすい。ずさんな戦略がいけないのだと性急に考え、ころころ戦略を変えるのは、戦略がないも同然だ。環境が激変した場合にかぎり、根本的な変化を検討すべきである。(『決定力を鍛える チェス世界王者に学ぶ生き方の秘訣』ガルリ・カスパロフ:近藤隆文訳)

チェス
井沢●よく「クオリティペーパー」と言いますけど、日本にはクオリティペーパーはありません。少部数で正確な情報を出していて、記者の水準も均質に高いという新聞はなくて、みんな大衆紙なんですよ。だって何百万部も出ているんですから。(中略)
小林●駅やコンビニでしか新聞は買えないことになったら、どれを選ぶかっていうようなことが試されてくるからな。
(『朝日新聞の正義 対論 戦後日本を惑わしたメディアの責任小林よしのり、井沢元彦)
 第二次大戦後まもなくのころ、いまだに「コトリ」が出没するといわれた。
 大正生まれの母はいわなかったが、明治10年代、19世紀末に生まれた祖母が、幼時のわたしにおしえてくれた。
「おそうまで遊んどって、コトリにつれて行かれても知らんで」
 と、おどすのだ。
 コトリはたそがれどき、軒から軒にこうもりが飛ぶころ、白い服をまとってあらわれる。背はうんとたかい。ふあふあと地上から浮いているのか、足音はしない。手にはビードロのコップをもっていて、そこには赤い液が入っている。祖母からきいた話に、絵本にえがかれたすがたが混淆(こんこう)しているかもしれないが、わたしはコトリをこのように思いうかべた。
(塩見鮮一郎)『サンカ 幻の漂泊民を探して

サンカ
 たとえ「憲法」と題された法律があったとしても、憲法は本質的に慣習法なのです。大事なのは法の文面ではなく、慣習にあるのです。
 つまり、たとえ憲法が廃止されなくても、憲法の精神が無視されているのであれば、その憲法は実質的な効力を失った、つまり「死んでいる」と見るのが憲法学の考え方なのです。
 だからヒトラーが政権を取って、全権委任法が制定されたら、そこで憲法は死んだと考える。憲法の精神が行われなくなった時点で、その憲法は無効になったというわけです。
(『日本人のための憲法原論小室直樹
 地球は水の惑星と呼ばれていますが、実は海水として地球の表面を覆っている大量の水は、もともと地球にあったものではありません。(中略)海を形成している大量の水分の起源は、彗星だと考えられています。42億年前から38億年前にかけて、彗星が次から次へと大量に地球に衝突しました。彗星は、別名「汚れた雪だるま」と呼ばれています。その名のとおり、彗星を構成している成分は、ほとんどが水の凍ったもので、その中に少量の有機物などが混ざっています。(『宇宙生物学で読み解く「人体」の不思議吉田たかよし
 いずれにせよ東京裁判における11人の判事の中で、「意見書」などといった柔らかい言葉ではなく、「判決」としたためてから自らの反論を残したのはパルだけではなかったこと、さらにベルナール一人だけが本判決への「反対」を明確に綴った表題から自らの見解を書き始めていたことなどは、専門家を除けば我が国で多くの者の意識の上に戦後長らく上ってこなかったまぎれもない事実なのである。(『東京裁判 フランス人判事の無罪論』大岡優一郎)

日本近代史
 そもそも「従軍慰安婦」なる言葉は戦時中には存在しなかった。「従軍」という冠は「従軍記者」や「従軍看護婦」など、いわゆる軍が認めた軍属のみに付けられていたもので、それゆえ、それぞれの業者が率いる慰安婦たちは、当時はただ「慰安婦」と呼ばれていた。このように史実に反する「従軍慰安婦」なる造語が一般的に使われるきっかけとなった言われているのが、73年に出版された千田夏光氏の『従軍慰安婦』である。(『教科書が教えかねない自虐小林よしのり竹内義和、日本の戦争冤罪研究センター)

日本近代史
 わたくしは昭和15(1940)年に財団法人写真協会に入社し、日本初の女性報道写真家となりました。日中戦争たけなわのころのことです。
 その後、太平洋戦争の開始、終戦、復興、高度成長、バブル崩壊……と続く激動の時代を、報道写真家として活動してきましたが、時にはやむをえず写真から距離をおいて過ごした時期もあります。
 でも、昭和60(1985)年。昭和という時代が“還暦”を迎えるその年に、わたくしは写真家として完全復帰したのです。多くの同年代がリタイアしている71歳からの再スタートでした。
(『好奇心ガール、いま101歳 しあわせな長生きのヒント』笹本恒子)
 詩情の表現ということを除いては、写真の記録的な側面に興味を持ったことはない。生活から浮かび上がってきたような写真だけが私を惹きつけるのだ。見ることの歓び、感性、官能、イマジネーション、そういったものを心に留めて、カメラのファインダーの中にまとめ上げる。そんな歓びをいつまでも私は失わないだろう。
     ――アンリ・カルティエ・ブレッソン
(『写真術 21人の巨匠』より)
音のない記憶 ろうあの写真家 井上孝治』黒岩比佐子