一見小心に見える丸顔の奥まった目には、死線を越えてきた者特有の、人は生死でさえも単に運不運でしかないことを知り尽くした静けさが潜んでいた。(『神無き月十番目の夜飯嶋和一

生瀬
 神話は、このようにしてつねに現実と重なり合うがゆえに、そこには時間がなかった。語部(かたりべ)たちのもつ伝承は、過去を語ることを目的とするものではなく、いま、かくあることの根拠として、それを示すためのものであった。(『漢字 生い立ちとその背景白川静
 エリカは、チョコレートでコーティングされたレーズンを舌の上にのせて味わうと、手の指先に、ぶつぶつした手ざわりを感じる。いつもの天気予報のアナウンサーの声を聞くと、視野の左すみに、さざ波のように揺れている紺色のものがいやでも見えてしまう。今日(木曜日)のことを考えると、その概念が、右肩近くの空間の特定の場所を占めているように感じられる。エリカの脳は、沿岸地域の気候に似ている――さまざまな要素が、その混じりあいを妨げる障壁が何もないため、たがいに作用しあうのだ。エリカの感覚や概念は、たがいに隔たりがなく、気候の流れのように流れ、融合する。(『脳のなかの万華鏡 「共感覚」のめくるめく世界リチャード・E・サイトウィックデイヴィッド・イーグルマン:山下篤子訳)
 とにかく日本軍は、失敗に懲りず、失敗から教訓を引き出さず、同じ失敗をまた繰り返すのである。補給の失敗でガダルカナルで惨敗し、ガダルカナル戦と前後して開始されたスタンレー山脈越えのポート・モレスビー攻略作戦でも、同じく補給の失敗で自滅し、のちのインパール作戦でも同じ失敗をまたやっている。アメリカ軍は、同じやり方で何度でも日本軍をたたきのめすことができた。というよりむしろ、日本軍がいつも同じやり方で勝手に自滅してくれたと言った方が当たっている。(岸田)『日本人と「日本病」について岸田秀山本七平

戦争
「なるべく早く投下しなくては」とトルーマンは焦りました。この新型爆弾の現実の威力を知りたいとも思っていました。ところが、日本がポツダム宣言をあっさりと受諾してしまえば投下のチャンスはまったくなくなります。そこで日本がすぐに受諾しないよう、当初はポツダム宣言の草案にあった「国体護持」の言葉をわざわざ削除して投下準備のための時間をかせいだのです。(『日本人の誇り藤原正彦

原爆日本近代史
 戦ったら勝たねばならない。戦って勝てば成功である。しかし孫子は「百戦百勝は善の善なるものにあらず、戦わずして人の兵を屈するが善の善なるものなり」と言っている。戦わないで勝つのが一番よい。戦えば、勝者といえども損害があり、とくに失った人命はいかなる戦勝によっても取りかえすことができない損失である。戦わねばならないと判断した場合でも、戦わないで勝つ方法をまず考えねばならない。目的は勝つことであり、戦うことはその手段にすぎない。勝つことさえできれば、何も損害を出してまで戦う必要はない。(『兵法孫子 戦わずして勝つ』大橋武夫)
 指先さえも見えない闇の中にいると、いろいろな感覚が研ぎ澄まされてゆく。視力を奪われる代わりに、触覚や聴覚や嗅覚が過敏になる。
 最も鋭敏になるのは聴覚だ。陽が沈む前は気が付かなかった音が四方から聞こえてくるようになる。薪をくべる音。炎が燃える音。水を飲み込む時に鳴る誰かの咽喉の音。鼾やオナラの音。誰かが寝返り打ってハンモックが擦れる音。何かをかき混ぜるような音。飛び交う蝙蝠(こうもり)の羽音。一筋の突風が吹いてきて大木が軋む音。雨の重さに耐えきれず、森のどこかで木が倒れる音。遠くの湿地で雄の蛙が雌の気を惹こうとして咽喉を鳴らす音。その蛙が蛇に襲われたか何かして、けたたましく叫ぶ音……。
(『ヤノマミ』国分拓)