私は、確信の根底には、意志の力では変えられない神経学的要素があることを明らかにして、確信の力を削ぐことを目指している。もし科学の力で私たちがこれまでを反省し、確信の本質を問い始めたならば、私たちは反対意見にもっと寛容になり、別の意見も前向きに考えてみようとするかもしれない。それが宗教や学問上の反対意見であれ、食卓で食いちがう意見であれ。(『確信する脳 「知っている」とはどういうことか』ロバート・A・バートン:岩坂彰訳)

脳神経科学科学と宗教
 結局、ここではっきりしたことは、国内においてはあまり明晰(めいせき)には表現しないが、まず大江健三郎が天皇制反対、天皇制廃止、天皇制打倒、天皇制撲滅の論者であるということだ。しかも、それを外国に向かってはひじょうに強く言い、国内向けにはできるだけソフトに言う。そういう使い分けをしているということが明確になったわけである。(『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者 大江健三郎への告発状谷沢永一
 脳はナノ単位の大きさのニューロン(神経細胞)で動いている。1ナノは100万分の1ミリである。一つのニューロンは数ナノの大きさで、大脳には1立方ミリに約10万個のニューロンがあるとされる。ニューロン間の伝達時間もまたミクロの世界である。脳の情報伝達の基本はスパイク発火と呼ばれる電気信号である。スパイクは1ミリ秒以下、つまり1000分の1秒より短い時間の反応である。これほど小さい細胞のほんの瞬間的な変化を間接的に測って分かることには限界があり、全体の変化の様子からおおよそを把握するにとどまる。(井上)『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道

科学と宗教
 アヘン戦争は、東と西の邂逅にはちがいないが、平等な立場のそれではない。東にたいする「西からの衝撃」(western impact)にウェイトを置いてとらえるべきであろう。東と西とは、この時点において、おなじ条件で出会ったのではない。(『実録 アヘン戦争』陳舜臣)
 ハタ・ヨーガというのは、いろいろなヨーガの流派のうちの一つで、身体を操作することを通して「解脱」(げだつ)を得ようとするものである。(『ハタ・ヨーガ完全版』成瀬雅春)
 かつて境界とは眼に見え、手で触れることのできる、疑う余地のない自明なものと信じられていた。しかし、わたしたちの時代には、もはやあらゆる境界の自明性が喪(うしな)われたようにみえる。境界が溶けてゆく時代、わたしたちの生の現場をそう名付けてもよい。(『境界の発生赤坂憲雄
 わたしたち観客は誰ひとり、『男はつらいよ』によって裏切られたり、深い失望や傷を蒙らされたりすることがない。幕が降ろされ席を立つ観客の誰しもが、かすかに湿り気をおびた安堵に浸されているはずだ。映画を観る前/観た後のはざまには、いっさいの変容も変身も変態も存在しない。かぎりなく無にひとしい映画体験、といってもよい。(『排除の現象学赤坂憲雄
 甲は乙のために耕し、乙は丙のために耕すが、誰ひとり自分自身を耕す者はない。(『人生の短さについて 他二篇セネカ茂手木元蔵訳)
 このような例を見てくると、発見は朝を好むらしい、ことがわかる。
“三上”という語がある。その昔、中国に欧陽修〈おうようしゅう〉という人が、文章を作るときに、すぐれた考えがよく浮ぶ三つの場所として、馬上、枕上(ちんじょう)、厠上(しじょう)をあげた。これが三上である。この枕上というのは、普通は、夜、床に入ってからの時間のように考えられるが、そうではなく、朝、目をさましてから、起き上がるまでの時間ととれば、スコットも、ガウスも、ヘルムホルツも、枕上の実践家だったことになる。
(『思考の整理学』外山滋比古)
 お釈迦様が仏教をつくったのは今から2500年前のインド。一方、世界初のペダル式自転車が登場したのは、150年ほど前のフランス。だから(あたりまえだが)お釈迦様は自転車を知らなかった。しかしもし、お釈迦様が自転車に乗ったなら、必ず「瞑想修行と自転車は似ている」と言ったに違いない。(『日々是修行 現代人のための仏教100話佐々木閑
 ジャイプールの刑務所でおこなわれた瞑想コースは、囚人たちに大きな変化をもたらし、しだいにインドの他の地域の刑務所でも、ヴィパッサナ瞑想のコースがおこなわれるようになっていった。バブ・パヤ――彼は5分間で3人を殺害した――の場合、バロダ刑務所でヴィパッサナのコースに参加した後、はじめてみずからの行為に強烈な後悔を感じ、被害者の家族に許しを乞う手紙を送った。1992年、兄弟と姉妹の絆を強める「ラクシャ・バンダン」の日、被害者の妻と妹は刑務所を訪れ、バヤの手首に「ラキ」のひもを結んだ。彼を兄弟として認めるしるしだった。(『瞑想する脳科学』永沢哲)