(1901年12月)17日の葬式は、彼(※中江兆民)の遺言により、一切宗教的儀式を排するために、「告別式」という形で行われた。これが日本における「告別式」の始まりである。然るに、すべてをあいまい化してしまう日本人は、やがて「告別式」のほかにも依然二重の手間をかけて「葬式」は行い、兆民の考えた「告別式」と別の形態のものにしてしまった。
 兆民は墓さえ作らせなかった。
(『人間臨終図巻山田風太郎
 釈尊には生涯を通して、自分が修行者の集まりのリーダーであるとか、帰依者たちの師であるとかの気持ちがなく、また、そのような態度で話すこともありませんでした。つねに自分は修行する仲間の一人という気持ちを持ち続けました。(『人間ブッダ田上太秀

ブッダ仏教
 例を三つ挙げておく。(1)集団が貧しいほど、その代償の一形態として、集団ナルシズムを使う傾向が強い。(2)集団が大きいほど、それと同一化することによって個人の得ることのできるナルシスチックな満足は低下し、集団のきずなは弱まり、さらにまた、個人がその集団内の下位集団に同一化してしまう傾向が強くなる。(3)国家の一部分にとどまっている際には均質なように見えるある地域に、実は何らかの形の小集団が既に存在しているとすれば、仮にその地域が独立してしまうと、もはやかつての均質性は維持できなくなる。独立によって政治的境界が一段せばめられたことに反応して、当該地域の人々は、さらにもう一段下位の集団に、自己同一化しようとするからである。
 以上を要約すると次のように言える。すなわち人間にみられる「芯の柔らかい」利他主義には、強烈な情緒と同時に、忠誠関係形成の変幻自在性という特徴が備わっているのである。人間は、社会的道徳を所持するという点では常に一貫しているのだが、その道徳を誰に適用するかという件に関しては、この上なく移り気な存在なのである。絶対不変と信じられている道徳的規則に対して強い情緒的な訴えを行ないながら、同時にいとも簡単に同盟関係を形成し、破棄し、そしてまた別の相手と結び直すという事実の中にこそ、人間の社会性の、たぐいまれな性格があるのである。おそらく氷河期以来ずっと同じだったのであろうが、今日においても、仲間集団とよそもの集団の区別は大変重要である。
 しかし、この両者を分かつ境界線は簡単にあちこちへ移動してしまう。プロスポーツは、このような基本的現象がいまも消滅せずに我々につきまとっていることを土台にして栄えているのだ。
(『人間の本性についてエドワード・O・ウィルソン岸由二訳)