とはいえ、同じキリスト教ならば、プロテスタントよりはカトリックの方が、バランスが取れていると私は思います。なぜなら、カトリックは聖職者というプロの階級を通して神と信者がつながっている。ところが、プロテスタントでは信者と神が直接つながりますから、プロ(聖職者)による調整が行われず、信者は「自分が聞きたいと思う神の声」を聞いてしまう。これは非常に危険なことです。私のもっとも嫌いな「狂信」へと暴走しかねない。(塩野七生)『ヴァチカン物語塩野七生、藤崎衛、ほか
 恐ろしい戦争は恐ろしい結末を迎えることとなった。アメリカ原子爆弾を最初に広島に、続いて長崎に落とした結果、20万人もの人びとが瞬時に殺された。その後、さらに何万人もの人が原子爆弾の後遺症で死んだ。

「願わくは、原爆投下が神の貴き目的実現のための御業であらんことを」ハリー・トルーマン大統領

 原爆投下以前に、日本の敗戦はすでに確実になっていた。原爆投下の主な目的は、アメリカのあたらしい大量破壊兵器の恐るべき殺人力を世界に見せつけることにあった。

(『戦争中毒 アメリカが軍国主義を脱け出せない本当の理由』ジョエル・アンドレアス:きくちゆみ、グローバルピースキャンペーン有志訳)
 視覚は神経疾患の影響を受けることが多い。それどころか眼は、実は脳の一部なのだ。(『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人リチャード・E・サイトウィック:山下篤子訳)

脳科学共感覚
 その年の9月1日、日本では関東大震災が起こっていた。大震災のニュースはベルリンにも届いた。しかし、現在ほど通信が発達していなかった当時、日本で起こった地震は富士山すらも吹き飛ばしたと書き立てられた。東京からの電報為替も一時不通になった。(『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯中丸美繪

斎藤秀雄
 そういう意味で人間は「言葉する存在」です。
 その言葉は、世界を切り取って名付けていく単語つまり語彙と、文体(スタイル)からなり、これらのあり方が人間の思考を決定づけています。文体というのは語彙を載せる船のようなもので、その船が思考の枠組みとして、あるいは文化として一番大きな力を持っています。われわれはその船を離れて思考することはできません。思考や行動は具体的な言語のなかに微粒子的に存在し、これと一体のもので、自分たちの文体のあり方をどのように変えていくかを考えないかぎり歴史が変わっていくことにはなりません。またこのことは、人間の歴史が、言葉(語彙と文体)から離れられず、したがって言葉の枠組が変われば、歴史もまた異なった姿であらわれる事実を意味します。
(『漢字がつくった東アジア石川九楊
 鎌倉仏教のなかで、法然親鸞は他力の信仰を求めて生き、道元日蓮は自力の修行に打ちこんだ。法然と親鸞とは、この世の価値を究極的に否定し、道元と日蓮は、あの世の実在を否定した。同じ鎌倉仏教と呼ばれる宗教から、どうしてこうもちがった考え方が選びだされたのであろうか。そのひとつの重大な理由は、法然、親鸞が乱世に際会し、道元、日蓮が鎌倉政権安定後に活躍した、という歴史的背景の差異に求められる。乱世は人間に無力をさとらせ、治世は人間に努力の意義を呼びさますからである。(『鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮戸頃重基
 キャンプへ、私は抱え切れないくらいたくさんの本を持って行った。とはいっても、人を教えるのに役に立ちそうな知識を本から吸収してやろう、という欲張った考え方からではない。荒川さんから教わった指導者の心得に従ったまでだ。
「選手と一緒に行動する時は麻雀はするな。退屈したら本を読め」
 と荒川さんはいっていたのである。麻雀をしてはいけないという理由は、
「キャンプや遠征先の宿舎の部屋へは、いつ選手が訪ねてくるかわからない。そういうとき、麻雀をしていて“ちょっと待ってろ”というのでは、人を指導する資格はない。部屋まで訪ねてくるような選手は十人中十人までが何か悩みごとや相談ごとをかかえているものだ。そういう選手の相手をしてやれないようでは、指導者としては落第である。また、どんな優れた指導者でも、心が通じ合わなければ、なにごとも成し得ない。せっかく部屋まで訪ねてきた選手の意欲まで、たかが遊びの麻雀くらいで潰してしまってはいけない」
 というものである。
(『回想王貞治
 終戦直後から今日まで、延々と繰り返されている反日史観(日本断罪史観)の根底は、東京裁判史観と1932年(昭和7年)のコミンテルン・テーゼ(「32年テーゼ」)にある。
「32年テーゼ」とは、ソ連共産党が日本共産党に与えた指令書で、日本を強盗国家・封建的帝国主義国家と一方的に弾劾(だんがい)したものである。しかも、証拠も根拠もお構いなし。終始、嘘でかためた言いっ放しにすぎないが、以来、この指令書は反日的日本人の“聖典”とされつづけた。日本人の「自虐の系譜」はかくも根深い。自国の歴史を他国からズタズタに干渉されることを容認するばかりか、狂喜乱舞してこれに飛びつく――。
(『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は、滅亡する小室直樹

日本近代史
菅沼――除染は鹿島などの大手ゼネコンが元請けをしています。さらに福島原発を廃炉にするということになると、誰が廃炉にするかといえば、国内では東芝や日立製作所、三菱重工、あるいはフランスのアレバやアメリカのGEです。つくるのも利権ですが廃炉にするのも利権なのです。
 しかも廃炉にする方が、もっと莫大な金がかかるそうです。原子力村という言葉がありますが、廃炉もあいかわらず原子力村の利権になってしまう。脱原発も原発推進派、原子力村の利権になるわけです。
(『この世界でいま本当に起きていること中丸薫菅沼光弘
菅沼●とにかく今の麻薬取引はみんなにせ札で行われているんです。
 例えば、東南アジアで昔からいろんな取引があったでしょう。そこではにせ札が本当の通貨として流通している。これは一体何だ。
 ドルというのは日本の日銀券と違うんです。あんなものは私的な銀行のものですよ。バンクノートですよ。香港のホンシャン銀行が出している香港ドルと同じです。よく言われているように、CIAの活動資金は、みんなにせ札です。だって、基軸通貨だからアメリカはどんどんドルを出せる。アメリカのCIAが使っているおカネは全部自分たちでつくったおカネ。昔のKGBも、どんどんスーパーKをつくった。そのKGBの印刷機を北朝鮮はいただいちゃった。
(『国家非常事態緊急会議 日本人よ! こうして植民支配のくびきを断て!菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄)
 こんなふうに情報を「ごちゃまぜ」に入れておいて大丈夫かと思うかもしれませんが、大丈夫です。いや「ごちゃまぜ」だからこそ、どんなジャンルの本の読書メモでも、どんな内容のしごとでも、何についてのアイデアだろうと、【「どこに書けばいいのか」と迷うことなく、すぐさま1冊のノートに入れることができるのです】。(『情報は1冊のノートにまとめなさい 完全版奥野宣之
 読書メモを手で書くのは面倒ではないか、と思う人は多いでしょう。
 僕もよく億劫(おっくう)に思います。
 しかし【「面倒だからこそ身につく」】ということも言えるのです。山の頂上にロープウェイで行くのと苦労しながら自分の足で行くのとでは、結果は同じでも、体験としては、またく違うものになるでしょう。そうやって手間暇かけることで、はじめて十分な見返りが得られるという一面もあるわけです。
 本の抜き書きをしたり、感想を手で書き残すことはただの「作業」ではありません。
 確実に、【将来のアウトプットの仕込み】になるのです。
(『読書は1冊のノートにまとめなさい 完全版奥野宣之
 疲労は人を感傷的にさせる。極度の疲労は人を詩人にする(徹マンも二晩目にはいるとすべての言葉は詩に近づいてゆく)。(『我が心はICにあらず小田嶋隆
「交換価値は価値の現象形態にすぎず、〈価値〉ではない」と、1879年から80年にかけて書かれた「アードルフ・ヴァグナー著『経済学教科書』への傍注」(杉本俊朗訳、『マルクス=エンゲルス全集』第19巻、所収、大月書店)のなかでマルクスははっきりとのべている。(『貨幣論岩井克人
 著名な民族音楽学者ブルーノ・ネトルは、音楽を“言語の埒外にある、音による人間のコミュニケーション”と定義した。おそらく、これより妥当な定義は無理だろう。(『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化スティーヴン・ミズン:熊谷淳子訳)
 アネモネカタクリヤマブキソウキツネノカミソリキリンソウツリガネソウ……。
 おじいさんはぼくたちの知らない草花の名前を、次から次へと並べた。ぼくたちはそれぞれの花畑を夢見ながら、何もなくなった庭に降る雨をただ見ていた。すっかり生まれ変わり、新しく何かが根づくことを待っている土に、天から水がまかれる音を耳を澄まして聞いていたのだ。
(『夏の庭 The Friends湯本香樹実
「いずれにせよ、常に断崖の縁を歩いてきた人間にとって、最大の緊急事態も、いわば日常茶飯の出来事にすぎません」(『永遠の都ホール・ケイン:新庄哲夫訳)
 感動というコトバがブームなのか知りませんが、以前はスポーツ選手が「感動を与えたい」などと口にはしなかったと思います。感動する、しないは受けるほうの自由なのですから、謙虚な気持ちがあればそんなことは言わないはずです。
 それにしてもここまで日本人は感動に飢えているのかと言いたくなります。感動を与えてもらいたいほど感動のない生活をしているということかもしれません。しかし感動は与えられるものでなく、みずから動いてつくっていく積極的なものであるはずです。何かを感じて動くことで湧いてくるものです。感動は人から簡単に与えられるほど安直なものではないのです。
(『運に選ばれる人  選ばれない人桜井章一
 わが国最初の火葬例は、公式記録によれば、文武4年(700)に死んだ元興寺(がんこうじ)の僧道昭(どうしょう)である。(『隠された十字架 法隆寺論梅原猛
 戦争がだんだんはげしくなってきて、これは、敗けるかも知れないという重苦しい気持が、じわじわと、みんなの心をしめつけはじめるころには、もう私たちの心から、〈美しい〉ものを、美しいと見るゆとりが、失われていた。
 燃えるばかりの赤い夕焼を美しいとみるかわりに、その夜の大空襲は、どこへ来るのかとおもった。さわやかな月明を美しいとみるまえに、折角の灯火管制が何の役にも立たなくなるのを憎んだ。
 道端の野の花を美しいとみるよりも、食べられないだろうかと、ひき抜いてみたりした。
(『一戔五厘の旗花森安治
 頭が痛い、肩がこる、冷える、肌が荒れる、生理不順など、病名がつくほどではないけれど、どうにかしたい不快な症状……これらはすべて脳から発せられるSOSのサインだと思ってください。不調が生じるのは、脳が「ここを見て!」と声を上げているのです。このサインを軽視してはいけません。放っておくと症状はどんどんエスカレートして、取り返しがつかないほど進んでしまいます。
 そこで、ツボです。サインを敏感に察知する方法として、ツボはとてもいいのです。脳には体中の情報が集まっていますが、脳は神経とつながっており、神経は、体中のたくさんのツボとつながっているのです。
(『一目でわかる! 必ず見つかる! ホントのツボがちゃんと押せる本加藤雅俊
 書くことは、欠く、掻く、画く、描くに通じるかくこと。土地をかくことが「耕」。「晴耕雨読」は、耕すことが書くことを含意し、東アジア漢字(書)言語圏に格別の言葉である。(『一日一書石川九楊
 ローマ人は市内になだれこんだが、アルキメデスは周囲のパニックを気に掛けなかった。地面に座り、砂のうえに円をかいて、ある定理を証明しようとしていた。服を汚した75歳のアルキメデスに、一人のローマ兵が、ついてこいと命じた。アルキメデスは拒んだ。数学的証明がまだ終わっていなかったからだ。怒った兵士はアルキメデスを斬り殺してしまった。かくして、古代世界最高の知性はローマ人によって不必要に殺されるという形で死んだのだった。(『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念チャールズ・サイフェ:林大訳)

数学
 あらゆる人間が、建設的で心暖まる話しか話題にしないような、そんな世の中が理想だと考える連中がいるのは仕方がないにしても、すべての人間にそうしたふるまいを強要する権利は誰にもないはずだ。
 言うまでもないことだが、この世の中には、人間がした行為を裁く法律はあっても、人間がアタマの中で考えていることを裁く法律はない。
 ところが、今回の事件を通じて、あなたがた(と、ついに二人称を使いはじめる)がしようとしたことは、ミヤザキ(※宮崎勤)の行為をではなく、ミヤザキの生活姿勢や性格や家庭環境を裁くことであり、彼のアタマの中味を裁くことだった。
 ということはつまり、我々(いっそ、一人称を使うことにしましょう)は、ミヤザキのみならず、人間一般の「孤独」を裁こうとしたということなのだ。
(『安全太郎の夜小田嶋隆
 彼女(※鶴見和子)は大腸癌でまもなく亡くなりましたが、その前にリハビリを打ち切られ、とうとう起き上がれなくなった現実が深く影を落としています。直接の死因は癌でも、間接的にはリハビリ打ち切りがこの碩学を殺したのです。
 彼女も生前しきりに「小泉に殺される」といっていたそうです。
(『わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか多田富雄
ジェノサイドが始まった直後)私たちの羊飼いは子羊を見捨てた。さっさと逃げてしまった。子供を連れて行くことさえしないで、私には、両司祭が私たちを見捨てた事実を理解することも受け入れることできなかった。二人は小型バスに乗る前に、誰にともなくこう言った。
「お互いに愛し合いなさい」
「自分の敵を赦(ゆる)してあげなさい」
 自らの隣人に殺されようとしているその時の状況にふさわしい言葉ではあったが、それは私たちを取り囲んでいるフツ族に言うべきだろう。
 司祭の一人はベルギーに避難した後、こうもらしたという。「地獄にはもう悪魔はいない。悪魔は今、全員ルワンダにいる」と。神に仕える者が、迷える子羊たちを荒れ狂うサタンの手に引き渡すとは、感心なことだ!
 ある修道女もトラックに乗る前に、周りに殺到してきた人々に向かって「幸運を祈ります!」と言っていた。ありがとう、修道女様。確かに幸運が来れば言うことなしなのだが。
(『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記レヴェリアン・ルラングァ:山田美明訳)
 早期リハビリテーションと称して急性期に早期起立や早期歩行を求めると、脳の自然回復を遅らせる可能性がある。さらに、早期起立や早期歩行は「痙性(spasticity)」という異常な緊張感を増悪させる主原因となる。痙性がどれほど患者の動きを制限するか、また一度発現するとその異常な筋緊張の制御がどれほど困難であるかは、臨床で働くセラピストなら誰もが知っているはずである。(『リハビリテーション・ルネサンス 心と脳と身体の回復、認知運動療法の挑戦宮本省三

リハビリ
 しかし、障害をもったとしても、障害というものは、その人の全体の中のごく一部にすぎない。その人自身の価値(存在価値)は、まったくそこなわれていない。それなのに、障害によって失ったものだけに目を向けてしまうのは偏った価値観に支配されているからである。
 そのような状態から立ち直るということは、結局、価値観を転換するということが基本になる。単に、弱い気持ちを強い気持ちにするということではない。これまでの人生観そのものを根本から変えるわけであるから、これが実は、一番難しいことかもしれない。
(『リハビリテーション 新しい生き方を創る医学上田敏

リハビリ
 ヨーロッパ各地でナチスが虐殺したユダヤ人の数

 ドイツ 18万人
 オーストリア 5万人
 チェコスロヴァキア 25万人
 フランス 6.5万人
 ルクセンブルク 3000人
 スカンディナビア 7万人
 オランダ 10.2万人
 イタリア 9000人
 ユーゴスラヴィア 5.1万人
 ギリシャ 6.2万人
 ルーマニア 20.9万人
 ハンガリア 19万人
 ブルガリア 5000人
 ソ連 75万人
 ベルギー 3万人
 計 447万9700人

(『新版 リウスのパレスチナ問題入門エドワルド・デル・リウス:山崎カヲル訳)

パレスチナ
 人が体験するのは、生の感覚データではなく、そのシミュレーションだ。感覚体験のシミュレーションとは、現実についての仮説だ。このシミュレーションを、人は経験している。物事自体を体験しているのではない。物事を感知するが、その感覚は経験しない。その感覚のシミュレーションを体験するのだ。
 この見解は、非常に意味深長な事柄を述べている。すなわち、人が直接体験するのは錯覚であり、錯覚は解釈されたデータをまるで生データであるかのように示す、というのだ。この錯覚こそが意識の核であり、解釈され、意味のある形で経験される世界だ。
(『ユーザーイリュージョン 意識という幻想トール・ノーレットランダーシュ:柴田裕之訳)

認知科学
 1995年にオクラホマ・シティの連邦ビルを爆破した犯人、ティモシー・マクベイがすぐに逮捕されていなかったら、米国はミシガン州を初め(ママ)とする、マクベイが故郷と呼ぶ場所を攻撃しただろうか。そんなことはしない。マクベイを発見して処罰するまで、大規模な捜査をするだけである。けれども、米国は、アフガニスタンに関して、タリバン政権を支持する人々を、アフガニスタン人であろうと外国人であろうと「テロリスト」であるとし、法的ではないにせよ道徳的に、9月11日の惨劇か、そうでなければ過去の反米テロリズムに関わっていると決めつけた。そして、アフガンへの攻撃は、フェア・ゲームであるとしたのである。(『アメリカの国家犯罪全書』ウィリアム・ブルム:益岡賢訳)
ひろさちや●1232年(貞永元年)に「貞永式目」(正しくは「御成敗式目」)が制定されると養老律令が停止されてしまう。ですから、法然上人、親鸞聖人が島流しになったときは、まず僧籍を剥奪して、そして一般人に戻して流罪という刑罰を科しています。これは、僧にはいきなり国家権力は介入できない。教団は治外法権ですから。だから、一遍、僧を俗人に戻さないといけない。そうじゃないと処分できないわけですね。ところが「御成敗式目」以後はそうではない。日蓮はいきなり「首切り」の処分を受ける。これは単に悪口を言った、治安を乱したというだけでの処刑ですね。ですから、養老律令に照らしての処分じゃない。ただ軍事政権が、戒厳令政府が勝手にやったものですね。(『ものぐさ社会論 岸田秀対談集岸田秀
 美しい自然を眺め、或いは、美しい絵を眺めて感動した時、その感動はとても言葉で言い表せないと思った経験は、誰にでもあるでしょう。諸君は、なんとも言えず美しいと言うでしょう。このなんとも言えないものこそ、絵かきが諸君の眼を通じて直接に諸君の心に伝えたいと願っているのだ。音楽は、諸君の耳から這入って真直ぐに諸君の心に到り、これを波立たせるものだ。美しいものは、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵や音楽が本当に分かるということは、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味わうことにほかなりません。(『モオツァルト・無常という事小林秀雄
(氾濫する科学情報を識別するための十カ条)
 1.懐疑主義を貫き、多様な情報を収集して自分自身で判断する
 2.「○○を食べれば……」というような単純な情報は排除する
 3.「危険」「効く」など極端な情報は、まず警戒する
 4.その情報がだれを利するか、考える
 5.体験談、感情的な訴えには冷静に対処する
 6.発表された「場」に注目する。学術論文ならば、信頼性は比較的高い
 7.問題にされている「量」に注目する
 8.問題にされている事象が発生する条件、とくに人に当てはまるのかを考える
 9.他のものと比較する目を持つ
 10.新しい情報に応じて柔軟に考えを変えてゆく
(『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学松永和紀
 かつて(1989年)天安門事件というのがありました。そのときに、天安門を占拠した若い学生のなかから「中国共産党打倒」のスローガンが出たのですね。これに、その当時の、鄧小平を中心とする古い指導者たちは物凄くショックを受けたわけです。そこで、鄧小平たちが考えたのは、「これでは駄目だ。若者に愛国教育をやらんといかん」ということでした。愛国教育とは、「中華人民共和国をつくるについて(ママ)、中国共産党が日本軍国主義の侵略を排除するためにどれだけ苦労したか」ということを教えるということです。
 つまり彼らの言う愛国教育というのはイコール反日教育です。これを江沢民体制の10年ずっとやってきた。そして、今も続けています。
(『日本を貶めた戦後重大事件の裏側菅沼光弘
 知は力である。
 人間の知がライオンの筋肉を打ち砕き、いとも簡単に檻の中に閉じこめることができる。信じられないことだが「知」は現実の世界では「力」として働くのである。
 そして、「知イコール力」という原理原則がはたらく(ママ)のは暴力の世界だけではない。お金の世界でも同じことである。知を獲得した物が他を圧倒する。
(『国債は買ってはいけない!武田邦彦
 六者協議の実質は、いまやアメリカロシア中国、朝鮮で構成される「核クラブ」によって、日本の核武装を封じ込めるための国際機構になりつつあります。六者協議の共同声明にある「北東アジア地域の永続的な平和と安定のための共同の努力」というのがまさにそれです。日本の核武装を封じ込め、日本の発言力を低下させ、金だけを出させる仕組みにしようととしている。このままでは日本は拉致問題はおろか、北朝鮮の核問題に対しても何の発言力もなく、お金だけむしり取られるカモという状態になります。(『日本人が知らないではすまない 金王朝の機密情報菅沼光弘
 国家による組織的宣伝は、それが教育ある人びとに支持されて、反論し難くなったら、非常に大きな効果を生む。この教訓は、のちにヒトラーをはじめとして多くの者が学び、今日にいたるまで踏襲されている。(『メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会ノーム・チョムスキー鈴木主税訳)

メディアプロパガンダ
 もし日本が核武装したとき一番最初にどこを核攻撃するか。平壌や北京ではなく、ニューヨークやワシントンに飛んでくると、アメリカは本気で考えているのです。それはなぜか。「報復」という言葉があります。「目には目を。歯には歯を」つまり広島、長崎です。我々は一切意識していないが、アメリカ陸軍の刑法典には、「報復は正義」と書いてある。報復は認められ、許されるんです。我々がアメリカにやられたということで、日本がアメリカに核兵器を撃ち込むということは違法にはならない。今、日本が核を落とされた唯一の国として、本当に心から全世界の平和を求めて、核を持たないことを宣言して、崇高なる平和国家として世界に立ち向かおうとしていますが、世界はそれを信じていないというのが現実です。したがって、責任ある政治家としては、核武装を一方的に主張することはできない。(『この国のために今二人が絶対伝えたい本当のこと 闇の世界権力との最終バトル【北朝鮮編】中丸薫菅沼光弘
 男にしろ女にしろ、五十代になれば、人は真の貌(かお)をもつ。その貌には明達(めいたつ)が欲しいものである。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 若いうちに幸運をつかまされた者に、人生がもっている幽玄な綾(あや)はわからない。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 復讎(ふくしゅう)は道義上赦(ゆる)されても、それをおこなうことによって、自分の何か肝心なものが死ぬ。怨みは、じっとかかえているのがよく、それを晴らさぬがゆえに、人を強く生かしつづける。怨みを晴らせば、生命力が殫尽(たんじん)する。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 やまい、についていえば、史書にかぎらず明確に書きわけられていて、病(へい)、は重病、重態で臨終が近いことを示している。死に至るやまいでないもおのは、疾(しつ)と書かれる。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
「運には盛衰がある。しかし徳には盛衰がない。徳はかたちのない財だ。その財を積むにはしかず、だ」(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 人が人に遭遇することは、小さな奇蹟を産む。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
「決断をおこなえぬ王の下ではかならず奸臣(かんしん)がはびこる」(『奇貨居くべし宮城谷昌光
「いまおっしゃったことは、わたしばかりでなく、天も聴いていたでしょう。言動が天を振(うご)かせば、かならず天祐(てんゆう)に遭います」(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 ――あのふたりは、何かにとらわれている。
 ふたりは意のままに行動しているようにみえていながら、目にみえぬ大きな檻(おり)のなかで右往左往しているにすぎない。
(『奇貨居くべし宮城谷昌光
「賈市は最初の歩幅が肝心です。その歩幅が小さければ、ゆきつく先は、たかが知れている。大胆に踏みだしておく。この歩幅に馴(な)れることです」(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 かれは人をくるむような微笑をもっている。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 時代を超え、デマレストの教えが蘇る――一つの方法に捕われるな。考え方を変えろ。一羽の黒い鳥ではなく、二羽の白い鳥を見ろ。一切れがなくなったパイ全体ではなく、一切れのパイを見るんだ。ネッカーの立方体(透明な立方体の線画。見方によって向きが逆になる)の内側ではなく、外側を見てみろ。形態(ゲシュタルト)を把握するんだ。それで自由になれる。(『メービウスの環ロバート・ラドラム:山本光伸訳)
「ソ連軍の攻撃下で、食物がなくラワシイ(ワラビに似た植物)や草を食べていた。エネルギーが尽きかけていた時、マスードが、5~6人の戦士とやってきた。我々に食物がないのを知ると、彼の持っていた食物をすべて置いていった。それで我々は力を得て、また戦った。私は知っている。彼が勇敢で偉大な人であるということを。彼のような人は、アフガンの歴史の中でもう生まれないだろう。彼の能力が全アフガニスタンに広がればよいと思う」(マラスパの地区司令官、モスリム)『マスードの戦い長倉洋海
 人は会社を辞めるのではなく、そのマネジャーと別れるということだ。かつては優秀な人材を引き留めるために莫大な金が投入されてきた。給与を上げ、特典を与え、高度なトレーニングを提供するなどの手を打つためだ。ところが定着率は、たいていの場合マネジャーの問題なのだ。もし定着率が悪かったら、まずマネジャーに注意を向けるべきだろう。(『まず、ルールを破れ すぐれたマネジャーはここが違うマーカス・バッキンガム&カート・コフマン:宮本喜一訳)
 ジョン・スチュアート・ミルがはるか昔に理解したように、継続的な批判に晒されない真実は、最後には「誇張されることによって真実の効力を停止し、誤りとなる」のである。(『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたちノーマン・G・フィンケルスタイン:立木勝訳)

ユダヤ人ホロコースト
 1920年代のはじめに、あるジャーナリストが(アーサー・)エディントンに向かって、一般相対論を理解しているものは世界中に3人しかいないと聞いているが、と水を向けると、エディントンはしばらく黙っていたが、やがてこう答えたそうだ。「はて、3番目の人が思い当たらないが」。(『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまでスティーヴン・ホーキング:林一訳)

相対性理論
 言葉の歴史の分析から得られるこのような特色は、おそらく今日にいたるまで続いている日本人の美意識の特質を物語るものとしてきわめて興味深い。その特質とは、第一に、「うつくし」がもともと愛情表現を意味する言葉であったことからも明らかなように、きわめて情緒的、心情的であるということであり、第二に「くはし」「きよし」に見られるように、日本人は、「大きなもの」「力強いもの」「豊かなもの」よりも、むしろ「小さなもの」「愛らしいもの」「清浄なもの」にいっそう強く「美」を感じていたということである。このことは、西欧の美意識の根となったギリシャにおいて、「美」が「力強いもの」や「豊かなもの」と結びついていたのと、対照的であると言ってよいであろう。(『増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い高階秀爾
 なぜ、そうなるのか。私に言わせれば、原因は一つです。日本人は総論、つまり「あれか、これか」という基本的な決断を避け、つねにまとまりのない各論の話に陥っていくからです。政策においても大きな国家的立場や国益を意識せず、決断を要する総論は措(お)いて小さな細部から作り上げていく。(『日本人として知っておきたい外交の授業中西輝政

日本近代史
 だが、おそらく歴史的には、リービヒ(※ドイツの化学者)の偉業よりも、初期の技術学校や『百科全書』が行ったことのほうが重要だった。数千年にわたって発展してきたテクネ、すなわち秘伝としての技能が、初めて収集され、体系化され、公開された。技術学校や『百科全書』は、経験を知識に、徒弟制を教科書に、秘伝を方法論に、作業を知識に置き換えた。これこそ、やがてわれわれが産業革命と呼ぶことになったもの、すなわち、技術によって世界的規模で引き起こされた社会と文明の転換の本質だった。(『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するかP・F・ドラッカー上田惇生訳)
 まず、第一の修行は、相手の話を「素直に」聞くことです。相手に反論したいときも、話をよく聞いてあげると、相手の意見も自然とおだやかになり、反論しなくてすむことのほうが多いのです。これが聞き上手のだいご味なのです。(『プロカウンセラーの聞く技術東山紘久

カウンセリング
 要するに彼らは、「スズメのように食べ、ゾウのように排便する」トレーダーなのだ。これでは口座が持ちこたえられるはずがない。さらに悪いことに、感情の奴隷になるというこの悪循環は、まともにぶつかって気づかされるまで終わることはない。(『フルタイムトレーダー  完全マニュアル 戦略・心理・マネーマネジメントジョン・F・カーター:山下恵美子訳)

投資トレード
 自分に頼れ。他のものに頼るな。「自分に頼れ」というのはどういうことか。それは、自分を自分たらしめる理法、ダルマに頼るということである。(『ブッダ入門中村元

ブッダ
 友とは暗闇の中ですがりつく対象ではありません。携帯で呼び出すと、飛んでくるだけの人ではありません。もちろん、友はそういうこともしてくれます。でも、それだけでは「都合の良い人」であっても友ではありません。(『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う友岡雅弥

ブッダ宗教
 イアンブリコスによれば、ピュタゴラスは即座に鍛冶屋に駆け込むと、ハンマーの音の響き合いを調べはじめた。そして、ほとんどのハンマーは同時に打ち鳴らされると調和する音を出すのに対して、ある一つのハンマーが加わったときだけは必ず不快な音になることに気づいたのである。彼はハンマーの重さを調べてみた。その結果、互いに調和し合う音を出すハンマー同士は、それぞれの重さのあいだに単純な数学的関係のあることがわかった――ハンマーの重さの比が簡単な値になっていたのだ。たとえば、あるハンマーの重さに対して、その2分の1、3分の2、4分の3などの重さを持つハンマーはいずれも調和する音を出す。一方、どのハンマーといっしょに叩いても不調和な音を出すハンマーは、ほかのハンマーと簡単な重さの比になっていなかったのだ。
 こうしてピュタゴラスは、和音をもたらしているのは簡単な数比であることを発見した。科学者たちはイアンブリコスのこの記述に疑問を投げかけているけれども、ピュタゴラスが一本の弦の特性を調べ、音楽における数比の理論をリラに応用したのは確からしい。
(『フェルマーの最終定理サイモン・シン:青木薫訳)
「スー族には、ある程度、中央集権的な政治制度があった。征服者に対して短い期間、見事に抵抗したけれど、実際には10年もたなかった。ところがアパッチ族は、何百年も征服されることなく戦い続けた」。アパッチ族が生きのびたのは、「政治権力を分散して、なるべく中央集権を避けていた」からだという。(『ヒトデはクモよりなぜ強い 21世紀はリーダーなき組織が勝つオリ・ブラフマン、ロッド・A・ベックストローム:糸井恵訳)

インディアン
 物理学化学は不変の実体という夢を追い続け、ほぼその夢を実現しつつある。翻(ひるがえ)って生物学をみれば、生物は物質と同じレベルの同一性を担っているわけではない。確かに、生物を構成する部品である水やタンパク質やDNAは、さしあたって構造が確定した、とりあえずの同一性を保つ物質である。しかし、タンパク質やDNAそのものはもちろん生物ではない。生物の本質は物質とは独立の霊魂であるとの考えを採らなければ、生物は確かに物質のみで構成されている。しかし、たとえば細胞は、生きて動いている限り、決して構造が確定した物体ではない。ならば細胞とは何か。それは細胞を構成する物質(主として高分子)間の関係性であると、さしあたっては考えるより仕方がない。(『生物にとって時間とは何か池田清彦
 以上の事例が示すことは、たいていの階層社会にあっては、有能すぎる者は無能な者よりも不愉快な存在だということです。
 通常の無能人間は、これまで見てきたとおり、クビの対象にはなりません。たんに出世できないだけです。ところがスーパー有能人間は、解雇されてしまうことが少なくありません。なぜなら、スーパー有能人間は階層社会を崩壊させ、それゆえ、「階層は維持しなければならない」という「階層社会第一の掟(おきて)」に違反するからです。
(『ピーターの法則 創造的無能のすすめローレンス・J・ピーター、レイモンド・ハル:渡辺伸也訳)

【の法則】
 眺めていると、アイダはさっきの楽節をさらに数度繰り返し弾いた。それからいきなり、迫りくる怒涛のような章に突入した。音楽が築かれ、迸(ほとばし)った。華やかなアルペジオを貫く叩きつけるような不協和音、余韻を全く残さずに鋭く断ち切ったフォルテッシモ、そして再び叫び、歌い出す。だが、常に冷ややかな嘲笑をもってコントロールされていた。(『ピアノ・ソナタS・J・ローザン:直良和美訳)
「分割して統治する」をモットーとするイギリスは、基本的にはユダヤ人移民を歓迎した。ヨーロッパからの移民は、イギリスの後ろ盾を受けて入植してきたし、彼らが現地に住むパレスチナ住民と摩擦を起こすことは、イギリスにとっては有利なことだったからである。独立を求める強いアラブは、望ましいものではなかった。パレスチナ内部に撹乱要因をつくって、消耗させることが必要だったのだ。(『パレスチナ 新版広河隆一

パレスチナ
 本物の逆説の単純な例は、「嘘つきの逆説」である。エウブリデスという紀元前4世紀のギリシア哲学者が考案したこの逆説は、誤ってエピメニデスのものとされているが、エピメニデスは仮託された語り手にすぎない(プラトンの対話篇に出てくるソクラテスのようなものだ)。クレタのエピメニデスは、「クレタ人はみな嘘つきだ」と言ったとされる。これを完全な逆説に転換するために、少しずるをして、戯れに、嘘つきとは、言っていることがすべて本当ではない人のことだと定義しよう。するとエピメニデスは、要するに「私は今嘘をついている」、あるいは「この文は間違っている」と言っていることになる。(『パラドックス大全ウィリアム・ストーン:松浦俊介訳)
 私のような無責任な面白がりは、絶対に戦争をしないのだ。ゲームにはつき合っても戦争にはつき合わないのである。
 歴史を振り返ってみれば明らかな通り、戦争は、戦争を「面白がる」余裕なんてさらさら持ち合わせず、眉間にしわを寄せてリキみ返り、「正義の感情」にたやすく身を焦がし、そして、最終的には「平和を守る」ために「闘って」しまうような、そういう小児的熱血挺身傾向の人々によって引き起こされるものなのだ。
 我々ゲーマーは、戦争みたいな、洗練度の低い、質の悪いゲームにはつき合わない。せいぜい高見の見物を決め込んで、嘲笑するだけだ。
(『パソコンゲーマーは眠らない小田嶋隆
 アメリカソ連と異なるのは、マルクスのように生きていた人間からイデオロギーを与えられたのではなく、神から使命を与えられたという点だ。神がアメリカ国民に与え給うた指名を、実行するために建国したのだ。
 かつてフランクリン・ルーズベルト大統領は、「政治では、偶然に起こることなど一つもない。何かが起これば、それは間違いなくそうなるように、あらかじめ計算されていたからなのだ」と言った。たびたび引用される有名な一節である。
 アメリカは神が与えた使命、つまり自由と民主主義を、世界に広めていく。神に与えられた目的に従って、計画的にさまざまなことをやってきたというわけだ。
(『菅沼レポート・増補版 守るべき日本の国益菅沼光弘
 人間みたいなちっぽけな存在にとっては、世界の終りもそれほど大げさなものではなく、こんなふうに平凡な嵐で始まるのかもしれない。(『その女アレックス』ピエルール・ルメートル:橘明美訳)
 ところで第4期(※紀元600-1200年/ヒンドゥイズム興隆の時代)に入ると、インドでは正統派バラモン系の思想・宗教のみならず、非バラモン系の思想・宗教にも新たな運動が台頭してくる。タントリズム(密教)の台頭である。
 タントリズムとは、儀礼とシンボルの機能を重視し、「シンボルは宗教の目的としての究極的なものを指し示すことができる」という前提に立つ宗教形態である。サンスクリットの伝統的な学問をおさめたエリートたち――あるいは専門家たち――の宗教とは異なって、宗教の専門的知識のない、一般の人々も直接参加できたところにこの宗教形態の特質がある。またタントリズムのテーマも、ヴェーダーンタ学派のそれと同じく、宇宙原理と自己(個我)との同一性の直証であった。
(『はじめてのインド哲学立川武蔵

哲学
「人間は結局、それ自体が問題を体現している存在なのです」(『ハイファに戻って/太陽の男たちガッサーン・カナファーニー黒田寿郎奴田原睦明訳)
 若くして死ぬなら死んでもいい。しかし栄光もなく、祖国に尽くすこともなく、生きた跡形を残すこともなく生きているのだったら、若くして死んではいけない。そんな生き方は酔生夢死も同然だからだ。(『ナポレオン言行録オクターブ・オブリ編:大塚幸男訳)

ナポレオン
佐藤●いま、コーヒーを飲んでますよね。いくらでしたか? 200円払いましたよね。この、コイン1枚でコーヒーが買えることに疑念を持たないことが「思想」なんです。そんなもの思想だなんて考えてもいない。当たり前だと思っていることこそ「思想」で、ふだん私たちが思想、思想と口にしているのは「対抗思想」です。護憲運動や反戦運動にしても、それらは全部「対抗思想」なんです。(『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき佐藤優魚住昭
 学ぶということは、教えられたことを踏み台にして、答えてくれる者のいない世界を問うことでなくて、何であろう。人は答えてくれない。が、天や地や水は答えてくれる。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 あえていえば、人は自分の計算におさまる人を心から尊敬しない。人は敵対者を恐れるよりも、助言者に用心しなければならぬ。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 義侠とは、利益のみえぬ虚しさにおのれを投擲(とうてき)することである。虚しさそのものに同化することである。その虚しさはつねに死に隣接しており、そこに飛びこむことは自己へのこだわりを棄てることになり、そこから脱することは新しい自己に遭遇することになる。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 孫子(荀子)という儒者は激しいところのある人で、いまの世に妥協しておのれに満足する者を、憎悪していた。孫子は、蔽(おお)われている人が嫌いなのである。世は変化する。それゆえ、世に役立つ者になるためには、自己を改革しなければならない。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 孫子(荀子)は速成をきらった。人より速く歩いてみせようとする者は、間道をえらぶうちに、けっきょく大道を見失って迷ってしまう。(『奇貨居くべし宮城谷昌光
 最近、よく「旬産旬消」(※その季節に採れる旬のものをその季節に消費する〈食べる〉こと)とか「地産地消」(ある地域で生産されたものをその地域で消費すること)とか言われるけど、ヨーロッパの国々は、工業製品は別にして、基本的に食糧に関しては、半径30キロ以内で全部生産し消費するという考えを持っているようだ。一つの都市とその周辺の田園地帯が一体ということだ。だから、どんなに安くても、シナ(中国)でつくったものは持ち込まないというのが、ヨーロッパ人の見識。どこでどんなふうにつくったかよく分からないような冷凍食品は輸入しない、食べない。地元のしか食べないというのはコスト高だけれど、そのコスト高をあえてやることが文化だ、というのが彼らの発想なんだね。こういう見識、発想は日本人も見習うべきだ。
 これは教育の問題だと思う。日本人は日本でつくったものを食べる。これが日本の文化なんだ、と教育することが大事だね。
(『ドンと来い!大恐慌藤井厳喜
 このような状況では、逃げ道は一つしかない。すべてを他の者のせいにすることである。ファシズム全体主義によって解決し、克服し、調和させることのできない矛盾は、外部の脅威たる敵のせいである。目に見えない魔物との戦いは、目に見える特定の人間や勢力との闘いに代えられなければならない。(『ドラッカー名著集9 「経済人」の終わりP・F・ドラッカー上田惇生訳)
 資本主義社会のあとが、今日の転換期としてのポスト資本主義社会である。資本主義のあとの社会というだけのことで、特質がいまだ定まっていない社会である。このポスト資本主義社会のあとに来るものが、おそらく知識社会である。その頃には、お金中心の社会があったことなど誰も信じないだろう。(『ドラッカー入門 万人のための帝王学を求めて上田惇生
 自力で新聞を読みこなせない層のためのテレビ版新聞ダイジェストをニュースショーと呼ぶのだとするなら、ワイドショーは、ニュース解説に読後感まで付け加えた一種の完パケ商品だ。「どう考えるか」のみならず「どう感じるか」までをすべて丸投げにした完全なおまかせニュース商品。
 たとえば「アッコにおまかせ!」では、文字通り和田アキ子という一人の代理オヤジに世界の解釈が丸ごと委ねられている。で、日曜日のオヤジの無気力につけ込む形でアッコ節が炸裂する。末世だ。
(『テレビ標本箱小田嶋隆

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